エントランスへはここをクリック   

 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 シリアの世界遺産5

クラック・デ・シュヴァリエ (2006年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁
総合メニュー(西アジア)

シリアの世界遺産

世界遺産1   世界遺産2   世界遺産2-2   世界遺産3   世界遺産3-2  
世界遺産4   世界遺産4-2   世界遺産5   世界遺産6

 次はシリアの世界遺産5です。

◆クラック・デ・シュヴァリエ (2006年)


出典:Wikipedia


クラック・デ・シュヴァリエ
Bernard Gagnon - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 クラック・デ・シュヴァリエ(フランス語: Krak des Chevaliers)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されています。

 1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用されました。

 フランス語名のクラック・デ・シュヴァリエは「騎士のクラック」を意味し、アラビア語の「カラット・アル=ホスヌ」は「城塞都市」を意味します。

 フランス語名に現れる「クラック」は、十字軍時代のアラビア語史書で使われた「ホスヌ・アル=アクラード(?o?n al-Akr?d、クルド人たちの城塞)」という名称のアクラード(クルド人)に由来すると考えられています。

 アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べました。城は十字軍美術(フレスコ画など)が保存されている数少ない場所となっています。

歴史


This is a photo of a monument in Syria identified by the ID
Fulvio Spada - https://www.flickr.com/photos/lfphotos/5163839600/, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 城はトリポリの東に位置した高さ650mほどの峰に築かれており、アンティオキアからベイルートへ向かう海沿いの道や、内陸から地中海に出る唯一の通路(ホムスとタルトゥースの間の峠道)を扼しています。

 元々は1031年にホムスの領主により建築されましたが、第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城しました。エルサレムへ向かう十字軍はこの城を放棄していますが、1110年にアンティオキア公国の摂政タンクレードが再度攻め落として修築しました。1142年にはトリポリ伯レーモン2世から聖ヨハネ騎士団に譲られました。

 聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い、コンセントリック(集中)型の城として、30mの厚さの外壁を加え、8-10mの壁厚の7つの守備塔を配置しました。

 12世紀の頃には濠も有しており、跳ね橋が取り付けられていました。外壁は内壁との間隔を狭く、また直角の曲がり角を多くして、外壁を奪った敵が破城槌などの攻城兵器を内壁との間に持ち込みにくく使いにくいようにしてありました。

 内門と外門の間には中庭があり、内部の建築物に続いていました。内部の建築物は騎士団によりゴシック調に改造されており、ホールや礼拝堂を備え、長さ120mの食糧貯蔵庫を有していました。さらに、もう1つの貯蔵庫が地下に掘られており、5年間の包囲に耐えうると考えられていました。

 1170年にはほぼ完成していましたが、その後も地震により一部が崩れ、何度か再建が行われました。城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していました。周囲にはサフィータ、トルトーザ(タルトゥース)などテンプル騎士団の要塞、および聖ヨハネ騎士団の別の主要要塞マルガット城も位置し、十字軍国家による防衛網をなしていました。

 1163年にザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けましたが、これを退けます。

 1188年にアイユーブ朝のサラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌ぎました。しかし、1271年4月8日、マムルーク朝の君主バイバルスの調略により落城しました。バイバルスはトリポリ伯が開城を勧めていると偽り、城主と騎士たちは偽の命令に従ってトリポリに落ち延びました。

 バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われました。

 1291年にアシュラフ・ハリールによって中東から十字軍勢力が掃討された後、城はマムルーク朝の副王の居城とされます。

 1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築きました。

 1928年にパリの碑文・学芸アカデミーが城を訪れ、最初の全面調査を実施しました。当時の城には500人超の農民の居住地になっており、1934年に住民の移動が完了します。

 現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録されました。2012年9月、トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれました。

 2013年にシリア内戦による被害のため、シリア国内の他の5つの世界遺産とともに危機遺産に登録されました。

 2013年7月シリアの内戦で空爆を受け塔の一つが破壊され、要塞の天井にも穴が開くなどの被害が出ました。


クラック・デ・シュヴァリエとサラディン城
Ron Van Oers - この物件はユネスコの世界遺産に登録されています。 登録名:Crac des Chevaliers and Qal’at Salah El-Din, CC BY-SA 3.0-igo, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。


写真ギャラリー


クラック・デ・シュヴァリエの再現図
Guillaume Rey - Guillaume Rey: Étude sur les monuments de l'architecture militaire des croisés en Syrie et dans l'île de Chypre (1871)., パブリック・ドメイン, リンクによる
SourceWikimedia Commons


クラック・デ・シュヴァリエより外を望む
CC 表示-継承 3.0, リンク
SourceWikimedia Commons



クラック・デ・シュヴァリエとサラディン城
Ron Van Oers - この物件はユネスコの世界遺産に登録されています。 登録名:Crac des Chevaliers and Qal’at Salah El-Din, CC BY-SA 3.0-igo, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


世界遺産6つづく