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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆隋 歴史(中国)


出典:中国歴史地図庫

 隋(Sui 、581年 - 618年[1])は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一しました。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになります。都は大興城(現在の西安市)です。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られました。

歴史

 隋の皇室である楊氏は『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚・楊震の子孫にあたるといいます。楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っています。私とあなたも知っています。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物であります。

 その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父・楊忠に至るという。武川鎮とは北魏において首都・平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つです。

 北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑(せんび)風の名前を漢民族風に改めるという漢化政策が行われたことがありましたが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行いました。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされます。

 注)鮮卑(せんぴ)
 紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代・南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。


 楊氏が五胡十六国時代から南北朝時代に、数代にわたり鮮卑の国家北朝の官人を務めたことは事実であること、楊堅の祖先は六代の間、北朝の非漢族諸王朝のもとで官人となり、支配階級である鮮卑の名門一族と通婚を行っていること、楊堅の皇后の独孤伽羅は鮮卑族の有力貴族の独孤氏であること、南北朝時代に華北を支配した北朝は鮮卑人を支配層とする王朝であり、隋も北朝の系統から成立したこと、隋の建国まで楊堅の父・楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得ていました。


 568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継ぎましだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していましたが、576年に崩御しました。武帝の跡を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていました。

 このうちの1人が楊堅の長女である麗華であり、麗華は宣帝の側室である朱満月が生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てました。宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まって行きました。

 580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握しました。これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こします。この中で最も大規模なものが尉遅迥によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外のすべてで反乱が起きるほどになりましたが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとします。

 同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より禅譲を受けて隋を建国しました。

南北統一

 既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていましたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めました。当時、南朝の陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていましたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていました。582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出しましたが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退しました。

 北の突厥(とっけつ)に対しては長城を修復して防備を固めます。584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させました。

 そして淮河と長江を結ぶ 邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保します。更に、かつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作ります。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりしていました。

 こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めてゆきました。

 588年、文帝は陳への遠征軍を出発させます。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられました。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結しました。

隋の皇帝一覧

 文帝(楊堅、在位581年 - 604年)
 煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 文帝の子
 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 煬帝の孫。李淵に擁立される。
 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 煬帝の孫、楊侑の兄。王世充に擁立される。
 秦王楊浩(在位618年) 煬帝の弟の秦孝王楊俊の子。宇文化及に擁立される

 注)李淵(りえん)[565~635] 出典:コトバンク
  中国、唐の初代皇帝。在位618~626。字(あざな)は叔徳。廟号(びょうごう)は高祖。隋に仕えま
  したが、煬帝(ようだい)の失政に乗じて挙兵し、長安に入って恭帝を擁立。618年、恭帝の禅譲を
  受けて即位し、群雄を平定して唐を建国しました。

年号

 開皇(581年 - 600年)
 仁寿(601年 - 604年)
 大業(605年 - 618年)
 義寧(617年 - 618年)
 皇泰(618年 - 619年)


出典:Wikipedia


隋・遣隋使つづく