エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行】
  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(遣隋使)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合メニュー

春秋・歴史 春秋・文化財  秦・歴史  秦・文化  秦・文化財1  秦・文化財2 
漢・歴史  漢・文化  漢・文化財  五胡十六国・歴史1 五胡十六国・歴史2 
五胡十六国・歴史3 五胡十六国4・文化  南北朝・歴史 南北朝・文化  隋・歴史  
隋・遣隋使 唐・歴史1  唐・歴史2 唐・文化  唐・陶磁器  唐・書  唐・仏画
唐・仏像  宋・歴史 宋・文化1 宋・文化2  宋・文化3  宋・文化4  元・歴史
元・文化  明・歴史 明・文化  明・文化財1  明・文化財2 明・絵画 明・西安城壁 
明・南京城壁
 清・歴史1  清・歴史2  清・文化  清・文財1 清・文財2  清・文財3
清・文財4  清・文財5  清・文財6
 中国・全体 中国・歴1 中国・歴2 中国・歴3


 最初はシルクロード時代の隋の文化概要です。

◆隋 遣隋使(中国)


出典:中国歴史地図庫

概要

 遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいいます。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されています。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からです。

 大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出ます。

 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主ですが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もありました。しかし、倭の五王時代と違い、冊封を受けませんでした。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれています。


第一回(600年)

 この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はありませんが、東アジア諸国では末尾の遣使でした。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せています。

 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

 以下略

第二回(607年)

 第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されています。

 日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていました。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたといいました。

 小野妹子(中国名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清(はいせいせい)が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明しています。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在します。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されています。

 注)裴世清(はいせいせい) 出典:Wikipedia
 隋の煬帝の使者。推古 16 (608) 年6月第1回遣隋使小野妹子の帰国に伴われて来朝。日本の威信を示すために難波の鴻臚館に盛大に迎えられ,隋の国書,進物を朝廷に届けました。同年9月第2回遣隋使とともに帰国しています。

 裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にあります。

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書でした。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解があります。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになっています。

 なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられています。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測されます。

 しかし、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われます。

第三回(608年)以降

 裴世清を送って小野妹子が再度派遣されました。この時は多くの留学生を引き連れ、その中に、高向玄理(たかむくのくろまろ)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、僧旻(みん)、僧旻らがいて彼らは隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献します。614年最後の遣隋使が派遣されます。

 注)高向玄理(たかむくのくろまろ)[?~654] 出典:コトバンク
 飛鳥(あすか)時代の朝臣。渡来人の子孫。遣隋使小野妹子(おののいもこ)に随行。帰国後、僧旻(そうみん)とともに国博士(くにはかせ)に任ぜられ、大化の改新政府の重臣となりました。のち、遣唐押使となり、長安で客死しています。

 注)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)生没年不詳。出典:Wikpedia
 飛鳥時代の学問僧。 大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)に住んだ
 南淵漢人(みなみぶちのあやひと)と称される漢系渡来氏族出身の知識人です。

 注)旻(みん)[不明~653] 出典:コトバンク
 飛鳥(あすか)時代の学僧。遣隋使小野妹子に従い、中国に留学。帰国して大化の改新の際、高向玄理
 (たかむこのくろまろ)とともに国博士となり、官制などを立案しています。

 612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵しますが、1回目で大敗し、次の2回にわたる遠征では、隋国内で反乱がおき、618年に隋は滅亡し唐が成立します。

年表

 600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)

 607年(推古15年) - 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)

 608年(推古16年) - ? (『隋書』煬帝紀)

 608年(推古16年) - 609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻・南淵請安・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)

 610年(推古18年) - ? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)

 614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)
618年(推古26年)隋滅ぶ。


唐・歴史1へつづく