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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road

大唐西市博物館 視察30

西市の民間起業(事業)

(Xi'an 中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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視察30 民間起業
 

 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

大唐西市博物館視察30



 西市の民間起業(事業)


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

<シルクロードの起点--西市の概況>

 前漢王朝(紀元前206-25年)は、渭水の北側にある関中平野に長安城を造った。それ以来、隋までの七つの横行は長安城をそのままに利用した。戦乱時代は短命王朝が多く、その都として長安城は幾たびの戦火により、ひどく破壊された。隋の文帝は、全国を新たに統一し、新しい都の大興城を建造すると決めた。その大興城は、宮城、皇城、外廓城という構造をもっており、外廓城に108の条坊街と東、西の二市を設置した。唐は隋の都市制度を継承し、東西両市の構造を保留した。
 西市は、隋の開皇3年(紀元583年)に開かれ、唐の時代晩期の破壊まで、三百二十年間の反映を維持した。長い歴史の歳月の中で、シルクロードの西端の源として、商品センターの集散地という役割を果たすことができた。

<盛代の商業聖真--西市の美談>

 いつまでも続く歳月の中で、西市は、一つの巨大な宝庫であり、限りない富を造り出すと同時に職業訓練場のように、数え切れない商業人材を育成し、後世に物質的な財産だけではなく、素晴らしく豊かな精神遺産を残した。
 ここで成功をおさめた商人たちは、われわれが学び、手本にすべき商業の知恵や商業道徳がある。その商人達の商業聖真は、いつまでも受け継がれるに違いない。西市という大舞台での物語は、商業界の美談となり、今後も末永く伝承される。



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


唐・西市と薬草・中国医学の発展と促進、古代の化学も促進・医療活動

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900




撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


医師と薬屋

撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


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