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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road

大唐西市博物館 視察49

時代状況の解説

(Xi'an 中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

大唐西市博物館視察49



 時代状況の解説

<参考:唐王朝時代の大都市長安と商業について> Wikipediaより

■大都市長安 Wikipedia 唐より

 唐代大都に発展した大都市は都である長安の外に、北部の洛陽、南部の揚州、 成都、広州などが存在した。

 長安は、唐代のほとんどの期間、唐の都であり続けた。人口は約100万人が従来からの通説であり、現在は諸説あるが、各説100万人の前後であることが多く、世界最大の人口を持つ都市である説が有力である。宮城が東に存在したため、長安の東には貴族や官僚が住み、西側に庶民が住んでいた。東西に存在した二つの市である東市と西市を中心に、商業地区が生み出された。東市の周りの坊には、北里と呼ばれた多数の妓楼のある歓楽街や旅館街、飛銭を発行をする進奏院、胡姫(外国人の少女)が給仕を行う酒場が存在した。

 また、庶民が多数居住した西市の周りには、西域から来たソグド商人が経営する金融業者、宝石商が店を構えていた。また、多数の地方から来た流寓者が西市付近に住み、スラム街となり、「客戸坊」と呼ばれていた。時代に進むにつれ、皇族、高官、宦官が街の東北部の宮城の近くを占めていった。市には、数百の行があり、邸店が立ち並んでいた。東市では高級品を主に扱ったが、商人は西市に集まり、西市の方がにぎやかであった。街中に飲食店が店を開いていた。

 盛唐から、運河の改良により、船で各地の食糧や特産品が運ばれるようになった。胡人は、突厥やソグド、回鶻人だけではなく、アラビア、ペルシャ、インド人なども多く、そのため、長安は世界でもっとも繁栄した国際都市となった。また、長安は関中という盆地にあり、要害に囲まれ、監牧地が近くに存在し軍馬が容易に供給されたため、防衛上の機能は高かったが、輸送上の問題があった。そのため、しばしば食糧難に陥り、盛唐までは皇帝は洛陽に移動することが多かった。また、シルクロードをつたって、西域国家経営を行い、西域とつながるために適した地勢でもあった。


■隋・唐時代の長安

 北周を滅ぼした隋朝を立てた楊堅は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、宇文愷(555年 - 602年)である。初め大興城(だいこうじょう)と称された都城が、隋唐代の首都・国際都市としての長安の都である。

 中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される条坊都市であった。全体はおよそ南北8.651km、東西が9.721kmあったとされる。東西の方が長いのが特徴である。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。

 また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。

 最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。


【安史の乱】

出典;ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より

 中国,唐中期に安禄山,史思明によって指導された,天宝 14 (755) ~広徳1 (763) 年の反乱。均田制,徴兵制の行きづまり,官僚制の動揺を背景に,安禄山と楊国忠の権勢争いが直接の原因で起った。旧体制の破綻から新興官僚層が官界に進出して貴族の政権を脅かしはじめ,貴族系の宰相李林甫は権勢維持のため,辺境の節度使に異民族や平民を登用した。

 新興官僚で節度使赴任者が中央に帰り宰相となることが多かったからである。禄山はこうして登用された蕃将の一人で,李林甫,玄宗,その寵妃楊貴妃に取入り,幽州,平盧,河東3節度使を兼任した。徴兵制と羈縻 (きび) 政策の破綻で,節度使は大量の傭兵をかかえる強力な存在であった。林甫の死後,楊貴妃の一族楊国忠が宰相となると禄山と反目し,禄山は地位の不安を感じ,20万の兵で反乱を起した。

 禄山軍は長安を占領,玄宗は四川に逃れ,途中兵士の要求で楊貴妃と国忠を殺さねばならなかった。ウイグルの援兵があり,唐朝側もようやく立直り,一方,禄山は失明と疽を病んで狂暴となり,至徳2 (757) 年次子安慶緒に殺された。しかし反乱部将は慶緒に必ずしも従わず,乾元2 (759) 年,史思明が慶緒を殺して指導者となったが,思明もその子史朝義に殺された。禄山の旧将は朝義に従わず,唐朝に寝返り,朝義が殺されて乱は治まった。この乱で内地に藩鎮 (はんちん) が列置されて唐朝の律令的集権体制はくずれ去り,また均田租・庸・調制から両税法に移行せざるをえなくなった。 

 安史の乱のころより、塩の専売が開始され、国家の重要な財源となったが、高価な塩を買わされる民衆の困窮は増した。


【黄巣の乱】

 出典:世界の歴史まっぷ 唐王朝より

 9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣(こうそう)が、仲間の王仙芝(おうせんし)とともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。

 黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州べんしゅう節度使となった朱全忠(しゅぜんちゅう)や突厥(とっけつ)沙陀部(さだぶ)の援軍により、かろうじて鎮圧された。しかし、この反乱によって唐の支配は事実上崩壊し、各地の藩鎮が公然と自立・割拠するなかで、907年、唐は朱全忠(後遼の太祖)によって滅ぼされ、中国は五代十国の分裂時代へと突入した。

■商業

 農業や手工業が発展もあり、商品市場に運ばれる豊富な物資が存在し、商業も発達した。また、交通全体の発達したことで、政府により貨幣や度量衡の統一も急速に推進され、商業全体のさらなる発展をうながした。また、海外貿易の進展もあり、高宗期には多くの大商人が生まれて、活発な活動を行った。経済発展とともに、邸店が増加し、櫃坊、飛銭が出現した。

 邸店は行商のための倉庫業と宿を兼ね、交易の場を提供するものである。唐代には行商とともに邸店が増加し、長安では市のある坊の内壁に沿って邸店が建っていた。大商人は邸店を経営し、巨利を得た。時代が進むにつれ、全土に邸店は普及していった。

 櫃坊は唐代中期に、交易が増加し、現金が不足したことを背景に邸店から転じる形で出現した。行商に対して、銭貨の保管を行い、また、商品を担保として支払いを代行することで、現金決済の不便を解消した。櫃坊では主に農民相手に高利貸しも行い、その金利は4割以上に達した。

 飛銭もまた櫃坊より少し遅れて出現した。商人が長安の進奏院や富家などに現金を払って受け取った、預かり券を目的地で現金に換え、その上で商品を購入して長安へと運ぶという、為替の一種である。飛銭は朝廷の管理のもとで行われたが、後に商人の信用を失い、機能しなくなった。

 主要な交易品としては、絹、磁器と紙、茶があった。絹は、衣などの本来の用途ばかりでなく、国内では貨幣として使用され、国外においても、シルクロードなどで交易品として用いられた。紙は製紙技術が発展し、竹紙が大いに用いられるようになった。磁器は大いに国内に流通し、私営の作業所からつくられ、国外にまで広まった。茶も北方で喫茶の習慣が一般化して、全国で茶店が建てられるようになり、主要な交易品となった。また、茶は回鶻人の馬に対する交易品となり、騎馬民族にまで伝わっていった。茶業は大いに発達し、多くの行商が茶を採り、ほうじて商品とした上で、各地を巡った。このため、商人の往来は激しくなり、各地の草市の創設に影響した。

 唐初の太宗時代に、『工商の類は力量が優れていても、財物を厚給したり、朝賢の君子(政府の高官)と同列にしてはならない』と定められ、唐政府は商業の急速な発達に対応するため、管理を厳格にし、税の徴収を行った。商人は、通過する関・津で、通るために公文を見せねばならなかった。商人が奴婢、牛馬等を
売買する時は必ず契約を行うことが、唐律で定められていた。

 だが、豪商富豪は、長安や洛陽に大勢居住し、次第に資産や荘園を多数所有するようになった。豪商は官僚と結託し、官僚になる秀才を養育していくようになった。また、地主が土地を農民から奪う兼併や、賦役の増加により、土地を失った農民は小商人となるものが増加し、次第に小商人層も増えていった。一方で、
政府の官僚も次第に商業を行い、科挙と土地兼併により、官僚・豪商・地主は一体化しはじめる。彼らは、課税や賦役を免れ、利益を独占した。これは「影庇」や「影占」と呼ばれた。大商人は官位を金銭で買って官僚となり、官僚の商業経営も一般化した。

 安史の乱以降、北方は戦乱と藩鎮により疲弊し、経済発展は阻害され、南方が発展していった。貿易も吐蕃の興隆によって、河西の地を奪われ、西北の陸路(シルクロード)交易は次第に衰退し、東南の海外貿易が盛んとなった。その一方で、都市における商業はより発展し、回鶻やソグド人の商人が長安を訪れ、交易
の場が市のみに限定されなくなり、夜間の市も発生する。

 また、長安には統治階級である富裕層が多数居住していたため、膨大な商品の需要が生まれ、経済発展の要因となった。戦乱や藩鎮との抗争、均田制の崩壊のため、財政困難に面した政府は両税法の制定後、商人に新たに課税を行うことになった。小商人は、政府および影庇の特権を持った大商人、双方からの圧迫を受けることとなり、失業するものが多く、塩や茶の密売や密貿易、盗賊行為を行うものが増加することにな
った。 



大唐西市プロジェクトへつづく