エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行】
  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

玄奘三蔵3 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合メニュー

大雁塔  視察1 視察2  視察3 玄奘三蔵1 玄奘三蔵2 玄奘三蔵3 玄奘三蔵4 玄奘三蔵5
大慈恩寺  視察1  視察2  視察3 視察4  視察5  視察6  視察7  視察8
大薦福寺  小雁塔  大清真寺 視察1  視察2  視察3 視察4 
青龍寺1  青龍寺2空海  青龍寺3中国版  青龍寺4博物館 視察1  視察2  視察3  88か所


 次は中国)の玄奘三蔵3です。

◆玄奘三蔵3 西安Xi'an 中国西安市)

 以下は高昌故城の入り口にある著名人の銅像。最初は玄奘三蔵です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助しました。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至りました。

 ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝しました。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講しています。

 注)ナーランダ大学(Nalanda University)
  ナーランダ大学は、インドビハール州、ナーランダ(नालंदा、Nālandā)中部にある
  427年に建てられた世界最古の大学の1つ。北部インド仏教の最重要拠点であり、
  後期以降はヴィクラマシーラ大学(Vikramaśīla University)等と共に、インド仏教
  が終幕を迎えるまでそれを支えた。ナーランダ僧院(ナーランダー僧院)、ナーラ
  ンダ大僧院(ナーランダー大僧院)、那爛陀寺とも。

  
  ナーランダ大学の仏舎利塔遺跡
  Source:Wikimedia Commons
  
  奉納塔   Source:Wikimedia Commons

 注)唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)
  個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り
  立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八
  種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無
  意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認
  識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人
  の無意識の領域をも内含する。

 注)ハルシャ・ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 590年 - 647年)
  ハルシャは、古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:
  606年 - 647年)。シーラーディトヤ(Siilāditya、漢語文献では戒日王、尸羅逸多)
  と号した。グプタ朝滅亡後の混乱のうちにあった北インドを統一した文武両面に
  秀でた名君のひとり[1]。

 こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰りました。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはありませんでした。

 太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の思惑があったとする見方もあります。

 事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められましたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承しました。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』です。

帰国後


An illustration of Xuanzang from Journey to the West, a fictional account of travels
Source:Wikimedia Commons


視察1へつづく