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玄奘三蔵4 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は中国)の玄奘三蔵4です。

◆玄奘三蔵4 西安Xi'an 中国西安市)

 帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げました。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始しました。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移りました。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立されました。


高僧玄奘三蔵像と大雁塔
撮影:随行学芸員 Nikon Coolpix S9900


西安市の大雁塔にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 その後、玉華宮に居を移しましたが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられました。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮でなくなりました。

訳経

 玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったのですが、それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及んでいます。

 玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳( くやく )、それ以後の漢訳仏典を新訳( しんやく )と呼びます。

 『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされていますが、この中で使われている観自在菩薩は、クマーラジーバによる旧訳では『観音経』の趣意を意訳した観世音菩薩となっています。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれていますが、サンスクリット語「Avalokiteśvara(アヴァローキテーシュヴァラ)」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を批判しています。

 注)『般若心経』(はんにゃしんぎょう)、
  『般若心経』、正式名称『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう、
  प्रज्ञापारमिताहृदय、Prajñā-pāramitā-hṛdaya、 プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)
  は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。

 僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。

 一説では、時の唐の皇帝・太宗の本名が「李世民」であったため、「世」の字を使うことが避諱によりはばかられたからともされています。

宗派

 玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではませんが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、日中の仏教界に大きな影響を与えています。

法相宗

 法相宗の実質的な創始者は玄奘の弟子の基です。しかし、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師である戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としています。

日本の法相宗

 遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受けました。 道昭の弟子とされているのが、行基です。


視察1へつづく