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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化3)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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凡例:暦=歴史、文=文化、文財=文化財


  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆宋 (文化3)

文化

散文

 宋の初期、駢文と呼ばれる華麗で装飾を凝らした文体が主流でした。柳開・王禹偁・石介・范仲淹などが駢文を空疎なものとし、秦漢代の簡素で質実剛健な文体(古文)への回帰を主張しました。特に石介の文体は「太学体」と称され、科挙の受験で書かれる文体の主流となりました。
 
 注)駢文(べんぶん) Wikipediaより
  中国の文語文における文体の一つ。「 駢体」または「駢体文」ともいう。 散文・韻文に
  対立する文体で、魏・晋のころに形成され、六朝時代から唐にかけて盛行した。

 だが、太学体の古文は韓愈の文体を受け継いだ晦渋難解なものでした。欧陽脩は嘉祐2年(1057年)、知貢挙(科挙の試験官)を勤めた際、蘇轍・曾鞏らの答案を及第させ、太学体で書かれた答案は落第としました。

 この結果、欧陽脩その人、欧陽脩の同期でその理念に同調した蘇洵、蘇洵の息子の蘇軾・蘇轍、新法改革の王安石、そして欧陽脩の最も忠実な弟子といえる曾鞏、いわゆる「唐宋八大家」の文体が主流となりました。なお、蘇洵以外は全て欧陽脩の門下です。

 同じ古文でも、欧陽脩の古文は韓愈の「陽剛」に対して「陰柔」と評されます。欧陽脩は抑揚に欠ける部分もありますが、文体が平易で簡潔な上、論旨が明確で分かり易いのが特徴です。欧陽脩の文体を最も忠実に受け継いだのが曾鞏であり、南宋以降の古文は基本的に欧陽脩・曾鞏を受け継いでいまます。

王安石・蘇軾は基本的には欧陽脩の文体を引き継ぎつつも、その生涯と同じく独特な個性を放っています。



 漢文・唐詩・宋詞・元曲と後世に言われるように、北宋は五代を引き継いで詞が大きく隆盛しました。

 詞は唐代の燕楽(宴楽)を源流とします。宴楽という語の示すように宴席で演奏される曲に付けた歌謡が詞です。詞は叙情的な物が多く、また詩に於いては禁忌とされた恋愛歌などの俗な題材も扱われました。定型詩とは違い曲に合わせて謡うため、句の長短が様々なのが特徴です。

 宋初では寇準などの詞が挙がりますが、仁宗朝以降が真の隆盛期といえます。当該期の詞人には晏殊・欧陽脩・張先・柳永らの名前が挙がり、特に後者二人は詞の新しい境地を開きました。張先により詞は日常的な事柄が詠まれ始め、詞が士大夫の間に敷衍したとされます。また柳永以降、小令という六十字までの詞以外にも、民間で流行した慢詞と呼ばれる長文が士大夫にも謡われる様になりました。

 神宗期で最も重要な詞人が蘇軾です。蘇軾は通判として杭州に赴任した際に張先と親交を結び、その影響を大きく受けた。しかし蘇軾の天才はそこに留まらず、従来の詞には登場しなかった『三国志』の赤壁の戦いなど勇壮な題材を選び、新境地を開きました。

 #詩の節で紹介した蘇門四学士は何連も優秀な詞人でもありましたが、その中でも秦観が最も文名が高く、師とは違って繊細で叙情的な詞を得意とします。

 徽宗朝に入り、詞を集大成したのが周邦彦です。周邦彦は音楽に詳しく、徽宗に命ぜられて大晟府という音楽の部署を作りました。周邦彦の影響力は極めて大きく、南宋の詞人は全て周邦彦を出発点として派生したといえます。その詞風は「渾厚和雅」と評されます。

 もう一人挙げるべきは女流詞人李清照です。李清照は口語的な表現を多用し、女性らしい繊細な感情表現が特徴です。

 宋が南に移り、詞において古い歴史を持つ旧南唐の地域に入ったことで新しい段階を迎えました。

 南宋初の詞人として辛棄疾・姜夔が挙がります。

 辛棄疾は金に対する主戦論者で、そのため官僚としては不遇でした。その詞は蘇軾と通じるものがあり、蘇軾と共に豪放派の代表とされ、蘇軾と並んで蘇辛と称されます。

 これに対して姜夔は周邦彦の流れを汲んだ典雅な詞風が特徴です。姜夔は生涯官途に付くことは無かったが、その文名により多数の高級官僚と親交を持っていました。

 南宋後半期の代表詞人としては呉文英・周密・張炎などが挙がります。呉文英は南宋滅亡と同じ頃に死去。元において亡国の憂き目に遭った宋の遺民として生きた詞人が周密・張炎です。亡国の悲しみを詠み込んだ詞が多いようです。元以降は散曲という新しい音楽が主流となり、詞は長い間忘れ去られていました。

「東坡引」辛棄疾

「揚州慢」姜夔

史学


司馬光
Source:Wikimedia Commons

 『新唐書』『新五代史』は『旧唐書』に不満を持った欧陽脩が新たに編纂した物です。また、司馬光が紀元前403年の戦国時代の開始から宋が成立する直前までを書いた、編年体の『資治通鑑』もあります。

 宋代は金石学が欧陽脩により本格的に始められたことも特筆されます。彼は周代から五代までの金石文を集め、『集古録』全1000巻に纏め上げました。これは現存しないが、跋文である『集古録跋尾』全10巻が現存します。他に呂大臨の『博古図』・徽宗の『宣和博古図録』などがあります。

芸術

絵画


 唐代半ばに誕生した水墨画は宋代が最盛期とされ、また人物画・宗教画から山水画・花鳥画に流行が移りました。文人画と院体画という描き手による分類もあります。文人画とは素人画家の士大夫が描く絵であり、院体画とは翰林図画院(略して画院)などに属する専門の画家が描いた絵です。

 唐代までの絵画は書などと比べ下に見られていたが、宋代になると士大夫も画を嗜む様になりました。

 北宋初期の山水画の代表は李成と董源の二人です。その後、李成の華北山水画は弟子の范寛に受け継がれ、李成流と范寛流の二つの流派が華北山水画の主流となった。江南山水画は董源の後に僧巨然が登場します。


郭煕『早春図』
Source:Wikimedia Commons

 注)郭煕『早春図』(かくき、そうしゅんず) 東京書芸館サイトより
  故宮の秘宝、北宋絵画の傑作・郭煕『早春図』
 壁画を思わせる圧巻の掛軸であり、描かれている深山幽谷の気宇壮大な風景と、
 そこに暮らす人々の息づかいさえ聞こえてくるような山水図掛軸です。頃は、厳
 寒の冬が過ぎ去り、雪解けを迎える早春。渓谷の氷は解けてせせらぎ、樹木は息
 を吹き返したように深呼吸をはじめ、万物すべてが眠りから覚め蠢(うごめ)きだ
 す大自然が描かれています。『早春図(そうしゅんず)』は台北故宮博物院に所蔵
 の山水画の頂点といわれる、宮廷画師・郭煕(かくき)の墨画淡彩図(ぼくがたん
 さいず)を精密複製印刷した大作掛軸です。

 注)桃鳩図(ももはとず、「とうきゅうず」とも) Wikipediaより
  宋の皇帝徽宗の筆になると伝えられる中国絵画で、院体画の傑作の一つ。日本
 の国宝。絹本著色。28.5 cm × 26.1 cm[1]。現在は掛軸に表装されている。徽宗
 26歳のときの作、と伝えられる。これが正しければ、1107年に描かれたことにな
 る。
  桃の枝に止まった一羽の鳩を表す。鳩や桃の枝は大部分が輪郭線を用いない没
 骨描で表現されている。画面右上に「痩金体」と称する独特の書体による「大観
 丁亥御筆」の款と「天水」の花押があり、朱文方印「御書」を捺す。 足利義満
 の所蔵印「天山」が左下にある。絵画などの収集家としても知られた明治の元老、
 井上馨の旧蔵品である。現在は個人蔵。        


徽宗『桃鳩図』
Source:Wikimedia Commons


牧谿『漁村夕照図』
Source:Wikimedia Commons

 注)牧谿『漁村夕照図』(もっけい筆 ぎょそんせきしょうず) 根津美術館Webサイトより
  中国・南宋時代 13世紀 紙本墨画 1幅 縦33.0cm 横112.6cm 根津美術館収
  蔵。国宝
  夕闇迫る漁村の風景が、多彩な水墨技法を駆使してみごとに描きだされた一幅
  である。湿潤な大気と明暗を宿す光の表出、ことに画面の右半分をつらぬく斜陽
  の表現は劇的とさえいえる。中国江南地方、瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこ
  う)周辺の8つの景勝を描いた「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)図」のうちの1
  図。同様に足利義満の鑑蔵印「道有(どうゆう)」が捺され、法量も一致する作品
  が他に3幅現存し、もとは八景を備えた画巻を、義満が座敷飾りのために切断し
  たものと考えられている。筆者の牧谿は南宋末の禅僧であるが、中国よりもむし
  ろ日本で高く評価され、わが国の水墨画に多大な影響をおよぼした。


 その後、華北山水画を大成させたのが郭煕(かくぎ)です。郭煕は李成に私淑してその技法を受け継ぎ、范寛をも取り込んで二流派を統合しました。李成と郭煕の李郭派と董源と巨然の董巨派が山水画の二大潮流となります。

 注)私淑(ししゅく:尊敬する人に直接には教えが受けられないが、
 その人を模範として慕い、学ぶこと。)

 花鳥画もまた南北の違いが如実に顕われていました。五代の頃、後蜀では「鉤勒填彩」画法が宮廷画家黄筌の一族を中心として行われ、その画風は「黄氏体」と呼ばれました。黄氏は開封で画院の指導的立場を担い、以後の画院では黄氏体が基本とされます。

 注)鉤勒塡彩(こうろくてんさい) コトバンクより
  中国画の技法の一。対象を輪郭線で縁取り、その内側を彩色するもの。特に、
  花鳥画における黄氏体(こうしたい)の典型的な手法で、徐氏体の没骨(もっこつ)
  とともに、二大技法とされる。

 一方、南唐には徐熙とその画風「徐氏体」がありました。徐氏も開封へ移住するが、黄氏が徐氏を排除したため、徐氏は在野となりました。以後、黄氏体では崔白、徐氏体では趙昌などが登場、北宋を通じて両派は発展を遂げ、北宋・南宋交代期の花鳥画の変へと繋がります。以上の専門画家と徽宗が院体画の代表です。

 他方、文人画の代表としては蘇軾、その師文同、蘇軾の弟子黄庭堅。米芾とその息子米友仁が挙がります。米芾は江南山水を称揚し、米法山水の技法を生み出しました。

 華北失陥の大変動の中で絵画様式にも大きな変化が生まれました。

 画院は李唐などにより紹興の末年に再建されました。当時の院体画家には、李唐・馬遠・夏珪・劉松年がおり、南宋四大家と呼びます。

 南宋の山水画で評価が高いのは、文人画および禅僧の作品です。画院の華北山水に対して江南山水および米法山水が受け継がれ、淡墨表現と連想による手法が特徴的です。宋迪・智融などの名が挙がります。

 花鳥画は現存する数が極端に少ないと言えます。前述のように黄氏体と徐氏体がありましたが、南宋になって輪郭は鉤勒・色彩は没骨という風にこの二つは融合しました。

 南宋代は禅僧が修行の合間に描いた絵が多く残っています。その代表が牧谿です。牧谿は淡墨と描線の簡略化が特徴で、同時代には毀誉褒貶が激しく、後の中国絵画に与えた影響はあまり大きくありませんが、日本では極めて高く評価されました。




蘇軾「寒食帖」部分
Source:Wikimedia Commons


黄庭堅「伏波神祠詩巻」部分
Source:Wikimedia Commons


米芾「呉江舟中詩巻」部分
Source:Wikimedia Commons

 唐代の「形」を尊ぶ書に対して北宋の書は「意」を尊ぶことに特徴があるとされます。「意」とは書の上で作者の個人としての性・精神性が表現されることを言います。

 北宋を代表する書家としては蘇軾・米芾・黄庭堅・蔡襄の4人(宋の四大家)が挙げられます。但し蔡襄は元は悪名高い蔡京が挙げられていましたが宰相として評判が悪かったため忌避されて蔡襄に変わったとも言われます。蔡襄・蔡京共に唐以来の「形」を尊ぶ伝統的な書であり、北宋の「意」を尊ぶ書の代表としては前三者が適当と言えます。また、蔡京を重用した徽宗も書の達人として知られています。

 #詩の節で述べたように蘇軾・黄庭堅は師弟関係にあり、書の上でも深い関係がありました。蘇軾の書はその詩と同じく自由闊達、黄庭堅もまたその詩と同じく技巧を凝らした点に特徴があります。

 米芾は特に書の研究により後世に与えた影響が大きいと言えます。米芾は知人から書画を借り受け、その精密な複製を作り、知人に対して複製を返したという逸話を持ちます。この過程で書画の真贋を見分けるには作者が気を抜く細部を見ることが重要であると発見しました。

 南宋では呉説・陸游などの名前が挙がります。

彫刻


菩薩坐像

 宋政府が法律で、何ら意味の無い像や鐘の建造の為に銅・鉄を用いる事を禁止したため、この時代の彫像は基本的に木製です。

 彫刻(主に仏教彫刻)は盛唐期を頂点とし、五代から宋代は衰退期にある。現存する数が少なく、その様式の変遷は解らない点も多くなっています。唐の彫刻が概ね豊満で華麗なのに対して宋の彫刻は概ねスレンダーで瀟洒です。唐と宋の美人の概念がそれぞれ顕われた物と考えられられます。

服飾

 男性に最も多く着用された普段着は襴衫(らんさん)です。袖は手を覆うほど長さで、袖口が非常に広く、袖山がありません。襟は丸く、裾は襴が前で縫い合わされ帯で結びます。これに幞頭(帽子)を被り、皮製の履を履くのが官僚・胥吏の普段の服装で、素材は綿が多いと言えます。

 幞頭は外側を布で作り、内側に革などを重ね合わせて硬くした頭巾で、宋代の特徴は両側に大きな角が付く点です。上層階級では真っ直ぐに長く伸びた「直脚」が多く、下層では曲がった角の「交脚」・「曲脚」が多い。幞頭が広く行き渡ると頭巾は廃れました。

 働く者の服装については、一目で職業が判るよう乞食に至るまで職業ごとに服装が定められており、外れた者は相手にされなかったといいます。例えば香料屋の番頭は帽子を被り、背子を羽織り、質屋の番頭は黒い上着に牛角を張った革帯を締め、帽子は被らないといった具合です。

 女性の服装に付いて。襦・襖・背子・半臂(ひじまでの袖)・背心(袖無し)・胸当て・腹当て・裙(スカート)・ズボンなどがあり、その中でも背子は上は皇后・皇太后から下は召使などまで好んで着ました。背子とは前が閉じられず、襟が平行なものを言います。背子は男性も着たが、特に女性の間で流行した。丈は様々なものがあります。

 士大夫階級の妻は髪飾りとして花を飾ることが一般的であり、様々な趣向が凝らされていました。


直脚の幞頭を被り、襴衫を着た神宗。



庶民の服装。


庶民の服装。


左の女性が来ているのが背子


髪に花飾りを施した皇后[注釈


宋・文化4つづく