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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化4)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆宋 (文化3)

文化



 唐代には既に喫茶の風習が広がっており、『旧唐書』「李玨伝」に「茶為食物、無異米塩」(茶は食物であり、米や塩と異ならない)と米や塩などと同じ重要性をもって語られ、陸羽により『茶経』が著されました。

 宋代には上は皇帝から下は貧民まで、茶は生活に不可欠となりました。

 宋代では茶は片茶(へんちゃ)と散茶(さんちゃ)に分かれます。

 片茶は茶葉を磨り潰して固形にしたもの、散茶は現在一般的な葉で淹れる茶のことです。宮廷で使用する最高級の片茶を「龍鳳茶」といい、詳しい製法が残っています。散茶については製法が伝わりません。なお、散茶の一種として「末散茶・屑茶・末茶」があり、これは葉茶を粉状にした現在の抹茶のようなものと思われます。

 宮廷で使用する茶は、建州(福建)にある北苑と呼ばれる宮廷御用達の茶園で(大半は)作られます。その量は宋初の太宗の太平興国の初めにはわずか50片であったのですが、哲宗の元符年間(1098年 - 1100年)には1万8千となり、徽宗の宣和年間(1119年 - 1125年)には4万7千になっています。

  注)片・串はいずれも片茶一個のこと。

 なお、唐代には3千6百串で、茶の使用量が大幅に増えたことが解ります。

龍鳳茶の製法を述べる。

 作られた龍鳳茶は皇帝や皇后の食事に供され、また臣下に下賜されて消費されます。以上は皇帝用の最高級茶の話で、庶民が飲む茶は手間も金も省かれていたと思われます。事実、後に明の太祖により「民力を疲弊させる」として、龍鳳茶は廃止されました。

 下賜された茶を士大夫は尊び、他の士大夫への贈り物としても非常に喜ばれました。士大夫の文化生活には茶が深く関わっており、この時代は茶を読んだ詩が多いのです。

 また士大夫の間では茶を味わい、その産地や銘柄を当てることを競う闘茶が盛んに行われました。茶を下賜されるのは一部の高級官僚のみであったので、その他の者は民間の茶店から買うか、自分の領地で栽培しました。

 町に出れば茶坊・茶肆と呼ばれる茶店が多数ありました。店では士大夫・市民・商人・妓女など職業・身分の関係なく、同じ席で茶を飲んでおり、交流の場となっていたことが伺えます。農村にも喫茶の風習は広がっており、王安石も「貧民であっても米・塩・茶は毎日欠かすことが出来ない」と述べています。

宋代の喫茶法 泡立てる茶
(北宋 960~1127、南宋 1127~1279)

 宋代の茶には実質的に2種類あったと考えられます。

 一つは固形茶(唐の餅茶、宋の片茶、研膏茶)、もう一つは製茶の際に固めない散茶です。どちらも粉に挽いて飲んだと考えられます。

 高級な研膏茶は宮廷に献上されました。唐代よりもっと製茶方法が複雑になった研膏茶は、他の香をつけたり、、龍の模様を浮き出させたりするようになりました。

 飲んで楽しむという茶の本来の姿からは遠ざかって権力・地位の象徴となっていったのです。

 宋代の初めは茶を匙でかき混ぜていましたが、『大観茶論』(北宋末)には竹製の茶筅について書かれていますし、南宋末の『茶具図賛』には竺副師というささら状の物の絵があります。

 日本人の僧栄西が中国から日本に茶道を伝えたのは南宋の末期ですから、日本茶道の抹茶の点て方が南宋の茶の飲み方に近いかもしれません。

 一方一般では、自分で挽かずに飲める、粉状に挽いた茶(末茶)が主流になりつつありました。水力で茶を挽くことも行われていました。『東京夢華録』には(茶の)瓶を下げて往来を売り歩く人もいたとあります。すでに飲める状態にして持ち歩いたのか、茶碗に粉状の茶を入れて湯を注ぎ、かき混ぜて飲ませたのではないでしょうか。

 また、都市化が進み、茶を飲ませる場所=茶肆もたくさん作られました。そこでは、いわゆる茶以外にも、「奇異茶湯」他、いろいろな材料を合わせた飲み物が季節に応じて売られていました。唐代に既に始まっていた闘茶という茶比べのゲームも盛んに行われました。

 宋代になって茶は日常の物となり、庶民の生活・娯楽にまで浸透したのです。

出典:公益財団法人 世界緑茶協会

◆中国における茶の歴史

 三国時代(3世紀)の書物「広雅(こうが)」によると、お茶は茶の葉を餅状に丸めたものを、あぶって搗(つ)き、湯をかけ、みかんの皮、ねぎ、しょうがなどと混ぜて、他の材料と一緒に煮るスープのようにして、飲まれていたようです。またこの時代、朝廷では、茶は酒と同等に扱われていたようです。そののち、客人をもてなすなど、次第に社交の場の飲みものとして用いられるようになりました。

 唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は全国に広がります。このころのお茶は、蒸した茶葉を搗き固めて乾燥させた餅茶(へいちゃ)が主流でした。茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていましたが、消費地への運搬には固形茶が便利だったと思われます。

 世界でもっとも古いお茶の本といわれている『茶経(ちゃきょう)』は、唐の時代に陸羽(りくう)によって記されたものです。『茶経』は、3巻10章から成り、お茶の起源、歴史から製造具、茶道具、いれ方、飲み方、産地、心得にまで及びます。そのなかには、餅茶の作り方や飲み方についても詳しく書かれており、摘んだ茶葉を蒸し、搗いて型に入れて成形し、日干し後、火で炙って乾燥して保存し、飲用する時は、それを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮た後、器に入れて飲む、とあります。

 宋の時代になると、お茶は貴族から役人や文人など富裕な市民のものへと変遷していき、お茶を飲みながら詩を吟じ、書をたしなみ、絵を描き、哲学を論じたと されています。時に遊びとして「闘茶」と称してお茶の良し悪しを鑑定し、茶器の良否を競うこともありました。飲み方も、緊圧茶の茶葉をすった粉末を茶碗に 入れてお湯とかき混ぜるという、日本の抹茶のような飲み方が行われていました。このころには、日本の茶道と同じような竹製の「茶筅(ちゃせん)」が使われ ています。また「餅茶」の製法が複雑になり、さらに呼び方が変わって「片茶(へんちゃ)、団茶」と呼ばれるようになりました。

 明の時代になると、お茶は大変動の時代を迎え、貴族と富裕市民に限られていた喫茶の習慣が、一般市民へと普及していきました。この時代、団茶はお茶本来の おいしさを損なっており、また、製造に手間がかかるということで、初代皇帝、洪武帝(朱元璋=しゅげんしょう)は団茶禁止令を出しています。この後「散茶」が本格的に生産されるようになり、茶葉の主流が急変しました。さらに蒸し製法に代わり、釜炒り製法が一般的になりました。残った団茶を飲む方法として、ジャスミン花の香りなどを着香させた「花茶」が登場するのもこの時代です。

 この時期、浙江省の西湖龍井茶(ろんじんちゃ)や安徽(あんき)省の黄山毛峰(こうざんもうほう)などの緑茶が知られるようになりました。また明代の末期には、福建省の武夷茶が上流階級に珍重され、この稀少価値の高い優良茶を商人が大金をもって求めました。

 清の時代になると、中国茶葉や茶具はほぼ完成し、茶文化は最盛期を迎えます。福建省では青茶(烏龍茶)が開発され、「花茶」とともに愛飲されるようになりました。また、青茶ならではのすばらしい香りを追求する過程で、工夫茶の手法が開発されました。工夫茶とは、時間と手間をかけてゆっくりと丁寧にいれるお茶を意味します。お茶の魅力を引き出す茶器を使っていれ、まず聞香杯(もんこうはい)で「香り」を楽しみ、次に茶杯で「味」を楽しみます。中国茶が香りを大切にし、「花茶」が大いに普及しているのは、このころからの習慣といえるでしょう。

 清が崩壊すると、中国は列国の侵略を受けますが、茶壷製作や茶葉の栽培はさらに発展しました。

 中華人民共和国の建国(1951年)後、中国茶は順調に発展を続けていましたが、毛沢東の文化大革命(1966~1976年)により、お茶は贅沢の象徴として弾圧され、栽培は制限されました。代わって台湾や香港で茶芸とお茶の栽培がより発展し、現在では台湾茶は世界的に有名になりました。

出典:お茶百科




 宋の食については陶穀『清異録』・蘇軾の料理を題材に読んだ詩、『東京夢華録』・『夢粱録』などが参考となります。唐宋の間に文化の他の分野では大きな変革が起きましが、料理はそれほど唐と変わりがありません。

現代の中華料理は非常に油っこい印象があるが、これは元代にモンゴルの影響を受けたもので、宋代の料理はむしろあっさりとして日本料理を髣髴とさせるという。

主食

 華北は麦などの雑穀類を主とし、華南は米を主としています。米はそのまま炊いて食べるか雑炊の様に煮込む、小麦は粒状に加工して食べます。宋代を通じて次第に互いの間へ浸透して行き、華北の米食・江南の粉食がそれぞれ増加します。小麦の加工品は極めて種類が多いので分類のみ挙げると、蒸す・焼く・揚げる餅類と茹でる麺類に分けられます。

 餅類の中で料理名を挙げると、饅頭・角兒(餃子)・包兒(包子)、焼餅(小麦粉を薄く延ばして焼き、中に肉などの餡を包んで食べる)・胡餅(平たく焼き上にゴマと餡を乗せて食べる)など。麺類は包丁で切る切麺、手で延ばす延麺、水に溶いた小麦粉を湯に流し込んで作る発麺に分かれます。麺には細切りの鳥や魚などを乗せ食べていました。

 米(とそれ以外の穀物)を粒状にして遣う場合、粒のままで蒸して餅状にする場合は餈(し)といい、粉にしてから餅状にする場合を餌(じ)といいます。

食材

 食材は新大陸原産の物を除き、現代の中華料理で使われる材料がこの時代にほぼ出尽くしています。

 肉類ではヒツジ・アヒル・ガチョウ・ニワトリ・ウズラ・ハト・ヒナドリ・ウサギなどが料理名として挙げられています。ブタは盛んに食べられましたが、当時のブタ肉は蘇軾の『猪肉頌』に「泥みたいに安く、金持ちは見向きもせず、貧乏人は料理の仕方を知らない。」とあり、安物とされていました。肉料理だけでなく内臓料理なども多いようです。

 魚介類ではコイ・エツ・イシモチ・アオウオ・コクレン・ハクレン・ソウギョ・フグ・ヒラウオ・フナ・甲殻類(エビ・カニ)・貝類(ホラガイ・ホタテガイ・アカガイ)・ドジョウ・ウナギなどなど(他にも多数)があります。

 野菜・果物もまた数多く利用されており、一部を挙げるとダイコン・ウマゴヤシ・シュンギク・タケノコ他多数。調理方法としてはおひたしや吸い物が多いといえます。果物はウリ・モモ・ナシなどが食べられ、またレイシは高級品として珍重されていました。

 調理法もまた非常に多岐にわたります。特筆すべきは魚肉を生で食べる膾(なます)です。膾は元は肉を細切りにして食べるものでしたが、次第に魚が膾と呼ばれるようになり、肉の膾は「生」と呼ばれるようになりました。この時代の膾は南方の料理であり、華北ではあまりありませんでした。

 唐代まではニンニクだれが主流であったが、宋代にはユズだれが好まれるようになりました。肉の生(膾)もニンニクだれが主流でした。魚・肉共に生食は元代以降は急速に廃れ、明代になるとほとんど存在しなくなりました。

 また水晶膾という料理もありました。これは魚皮から出るゼラチン質を固めて薄切りにする、日本の煮固りのことで、テングサなどを使って固める料理もありました。

建築


『営造法式』
Source:Wikimedia Commons
PericlesofAthens - 投稿者自身による作品 (My book), パブリック・ドメイン, リンクによる


 現存する建築物については、唐代までに比べ宋代のものは格段に多いと言えます。

 唐・五代の中で建築様式は規格化・工業化の道をたどり、北宋代にほぼ完成されたと見られます。

 元符三年(1100年)に李明仲が著した『営造法式』には、得られた技術が記されています。これ以降の中国建築では細かな差異はあれどもその本質に付いては違いはありません。

 宋代の大規模建築が驚くほどの短期間で完成したのですが、その理由は長さ・径・厚さ等による材料の規格化・接合部などの加工方法の規格化や雇用による専業化の成果であるのは疑い無いところです。職種が細分化され、大木作、石作、瓦作、陶作、竹作、泥作、窯作など、多くの作業に分類されているのも特徴的です。

 首都開封城は現在の開封市の地下に埋もれています。建築技術においては城壁の表面を塼(レンガ)で覆ったことが特筆されます。)


 虹橋(清明上河図巻部分)
Source:Wikiwand Com
パブリック・ドメイン, リンク


 開封の城内は輸送の為に運河が貫通していましたが、宋代には架橋が興味深い発展を見せました。中でも「虹橋」が有名で、木製の梁の角度を変えながら重なる構造をもち、虹の如く極端なアーチを描いています。

 虹橋は幅の狭い河に適した形式であり、『清明上河図』に描かれている虹橋は幅20mほどと推定されています。この形式は支柱が不要なため船の運行に便利です。虹橋は山東が発祥で、徐々に広まり開封には三つの虹橋が架かっていたと言います。

 船の運行しない河では木製や石製の普通の橋が架けられました。石製で有名な橋が泉州市に現存する「洛陽橋」(別名万安橋)で、この橋は蔡襄が泉州郡守の時に建設を提唱し、5年の歳月をかけ建設されました。橋が架かる洛陽江は干満の差が激しく、水流の圧力を逸らすため基礎部分は小船の形をしています。全長は540mにもなります。


元・歴史へつづく