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イラン・世界遺産13

ペルシャ式庭園(フィン庭園) (2011年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次はイランの世界遺産13です。

イランの世界遺産13 ペルシャ式庭園(フィン庭園 (2011年)


出典:Wikipedia


ペルシャ式庭園(フィン庭園)の位置
出典:グーグルマップ



フィン庭園 (2011年)
パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=238095">リンク</a>
Source:Wikimedia Commons

概要

 フィン庭園(ペルシャ語: باغ فین‎、英: Fin Garden)は、イラン・カーシャーンにあるペルシャ式庭園です。フィン庭園内には、1852年、ガージャール朝・ナーセロッディーン・シャーの宰相を勤めたアミール・キャビールが暗殺された浴場も含まれています。

 2011年、「ペルシャ式庭園」(英語: The Persian Garden,フランス語: Le jardin persan)の登録名で、他のイラン国内の8つのペルシャ式庭園とともに、ユネスコの世界遺産に登録されました。

歴史

 フィン庭園の起源はサファヴィー朝以前にあったと考えられています。もともと、フィン庭園は、カーシャーン以外の場所にあったものが移築されたと伝えられていますが、その明確な証拠は見つかっていません。

 現存するフィン庭園の建設は、アッバース1世の時代に建設されました。もともと、カーシャーンの南西数マイルのところのフィン村の付近にはペルシャ式庭園がありました 。

 アッバース2世時代まで、サファヴィー王家は、フィン庭園の拡張工事が実施されました。その後、ガージャール朝のファトフ・アリー・シャーがフィン庭園を高く評価し、再拡張が実施されるようになりました。とはいえ、それ以後、フィン庭園は放置されました。

 1935年、イランの国家財産の1つにリストアップされ[2]、2007年9月8日には、ユネスコの世界遺産暫定リストに登録されました]。

構造

 フィン庭園の中庭は、4本の塔を伴う城壁に囲まれています。面積は、2.3ヘクタール。庭園を維持するために、現代では多くの水を利用しています。フィン庭園のそばの丘には、泉があり、その泉の水を利用して、庭園内に数多くあるプールや噴水に供給されています。とはいえ、これらの水の供給には、機械的なポンプを必要とはしていません。

 庭園内には、イトスギが多く植えられており、サファヴィー朝、ザンド朝、ガージャール朝時代の建築の特徴をよく残しています。

起源とコンセプト


タージ・マハルの庭園
CC 表示-継承 2.5, リンク
Source:Wikimedia Commons


ヘネラリフェのアスキアの中庭
Jebulon - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 ペルシャ式庭園の起源は、ハカーマニシュ朝時代にさかのぼることが可能です。

 ハカーマニシュ朝時代には、既に、楽園を意味する「paradise」という考えが、ペルシャ文学を通して、他文化に影響を与えていました。ヘレニズム時代のセレウコス朝の庭園やプトレマイオス朝のアレクサンドリアの庭園にその証拠があります。

 ゾロアスター教の経典である『アヴェスター』に出てくる単語の「pairidaēza-」(古代ペルシャ語:*paridaida-、中世ペルシャ語:*paridaiza- )は、壁を持つ庭園を意味し、古代ギリシア語に伝わり、「παράδεισος」(ラテン文字転写:parádeisos)となりました。

 古代ギリシア語の「παράδεισος」は後に、ラテン語の「paradīsus」という言葉となり、ヨーロッパ各言語に借用されることとなりました。英語の「paradise」、フランス語の「paradis」、ドイツ語の「Paradies」がその代表例です。また、「paradise」という言葉は、セム語系の言語でも借用されることとなりました。例えば、アカディア語の「paradesu」、ヘブライ語の「pardes」、アラビア語の「firdaws」です。

 言葉の原義が指し示すとおり、ペルシャ式庭園は、壁で囲まれた空間です。その目的は、過去も現在も、人々に休息の場所を与えることです。

歴史

 ペルシャにおける庭園の歴史は、紀元前4000年代にさかのぼることができます。現在、確認できる最古の庭園は、紀元前500年代に建設されたパサルガダエ庭園です。

 サーサーン朝の時代は、ゾロアスター教の最盛期であり、芸術における「水」の役割の重要性が増していった時代でした。この傾向は、それ以後のペルシャ式庭園を建設するにあたり、必要不可欠なものとなり、噴水や池が庭園内に建設されるようになりました。


いわゆる四分割の庭園の模式図。模式図では、図の上部に宮殿が水色の部分は、水路や噴水を指し示す。
Dr. Persi - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 イスラームによるペルシャ征服以降、審美的なものが重要視されるようになりました。その代表例が、庭園を四分割する様式である「チャハルバーグ(四分庭園)」です。

 四分庭園は、当時の人々が考えていた「エデンの楽園」を模倣したものです。その考えとは、4つの川と4つに分割された円が世界を意味するというものでした。このデザインによって建設された水路の一方は他方の水路よりも長く建設されることもありました。

 現在のイスラーム世界における最古の宮殿庭園がシリアのルサーファにある庭園であり、建築はウマイヤ朝時代にさかのぼります。

 その次に遺跡が現存する2番目に古い十字型庭園はイラクのサーマッラーで、アッバース朝時代の9世紀半ばに建設されました。

 考古学的に四分庭園と実証された遺跡は、アンダルシアのマディーナ・アッ=ザフラーです。この遺跡は、後ウマイヤ朝時代の936年以降に建設された庭園です。

 モンゴルによるペルシャ征服は、庭園や建築において大きな影響を与えました。庭園内には、ボタン科やキク属の植物が植えられるようになったのもこのころです。ペルシャ式庭園の建築様式は、帝国内に伝播しましたが、特に、インドで顕著でした。

 インドにペルシャ式庭園をもたらしたその代表格がムガル帝国初代皇帝バーブルです。

 今日では、手入れの行き届いていないアーグラの庭園であるアラム庭園(英語版)が建設されたのは、建国間もない1528年のことです。このアラム庭園がインドにおけるペルシャ式庭園の最初です。

 インドにおけるペルシャ式庭園の建設はバーブル以降も続き、第2代皇帝フマーユーンの墓廟であるフマーユーン廟、第5代皇帝シャー・ジャハーンが王妃ムムターズ・マハルのために建設したタージ・マハルに結実しました。

 一方、ムガル帝国のライバルとして、イランの地に君臨したサファヴィー朝治世下においても、建設が継続されました。当時の国際情勢の影響もあり、ペルシャ式庭園には、フランスやロシア、イギリスの庭園の影響が見受けられます。


ペルシャ式庭園(フィン庭園)の世界遺産への登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。


世界遺産14へつづく