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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

イラン・世界遺産8

ベヒストゥン (2006年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次はイランの世界遺産8です。

◆イランの世界遺産8  ベヒストゥン (2006年)




ベヒストゥンの位置
出典:グーグルマップ


ベヒストゥン (2006年)
Hara1603 - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


ダレイオス1世が反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ 描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ(英語版)(サカ)。
author unknown - Scanned from book Всемирная история (в четырёх томах) Древний мир. Сочинение профессора Оскара Егера(† 1910). Издательство «Специальная литература» Санкт-Петербург 1997 isbn 5-87685-085-3 (т. 1) тираж 10000. 824 стр. Reprint of 1904 year edition by А. Ф. Маркс († 1904)., パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

概要

 ベヒストゥン碑文 (英: The Behistun Inscription, ペルシア語: بیستون‎ Bīsotūn)は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)が、自らの即位の経緯とその正統性を主張する文章とレリーフを刻んだ巨大な磨崖碑frづ。イラン西部のケルマーンシャー州にあります。

 ダレイオス1世の碑文は地上100m以上の高い場所にあり、高さ3m・幅 5.5m の浮き彫りの周辺に、同じ内容の長文のテキストが、エラム語、古代ペルシア語、アッカド語(新バビロニア語)という3つの異なった言語で書かれています。当初はエラム語の碑文のみでしたが、壁画像を追加する段階でアッカド語と古代ペルシア語の碑文も増補されたと見られています。


フリードリヒ・シュピーゲルによるスケッチ(1881年)
不明 - http://titus.fkidg1.uni-frankfurt.de/didact/idg/iran/apers/DB1_1-15.GIF, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 エラム語は2箇所にほぼ同じ内容のものが書かれ、第1のものは323行、第2のものは260行からなります。アッカド語は112行からなります。古代ペルシア語は合計414行からなります。ベヒストゥン碑文は古代ペルシア語の現存する最古の碑文である[5]。また、浮き彫りの余白部分にも数多くの小碑文が掘られており、その大部分は浮き彫りで描かれた人物の説明です。

 碑文と同じ内容が記されたものがエジプトのエレファンティネ島出土のパピルス文書群から発見されています。このエレファンティネ島の文書から発見されたベヒストゥン碑文の写しは、アッカド語版を底本にアラム語に翻訳されたものであり、断簡ではあるが重要な資料です。またバビロニアからアッカド語版の断簡が発見されています。

解読

 古代ペルシア語は近代歴史学史上、初めて解読された楔形文字の言語です。18世紀、ヨーロッパからの旅行者がペルセポリスを訪れたことによって楔形文字が再発見され(当初は装飾文様と考えられていましたが)、その後デンマークによる探検隊の隊員ニーブールがその正確なコピーをヨーロッパに持ち帰りました。ドイツ人グローテフェントが、ニーブールのコピーを元に解読を試み、1802年までには彼なりの解読を終えていました。

 しかし、当時知られていた楔形文字(古代ペルシア語)の文書は短文ばかりであり、詳しい分析のためにはより長いテキストが必要でした。それをもたらしたのがイギリス軍武官のヘンリー・ローリンソンによるベヒストゥン碑文の解読でした。

 彼は岸壁によじのぼって碑文を写し取るという困難な作業を10年以上に渡ってやり遂げ、1846年以降に全文と古代ペルシア語部分の翻訳を発表しました。彼の努力は報われるものでした。

 ベヒストゥン碑文にはダレイオス1世時代の多数の民族の名前が記録されており、ギリシア語の史書やサンスクリット、アヴェスター語との対照によって多数の古代ペルシア語の楔形文字の音価を確定することができました。グローテフェント以来の古代ペルシア語の解読はここにほぼ完成しました。

 ローリンソンはまたエドワード・ヒンクスの研究を元にして、アッカド語部分の解読を1851年に発表しました。

 1852年にはエドウィン・ノリスがエラム語部分の解読を発表しました。エラム語部分の解読は、エラム語が既知の言語との親族関係を持たなかったため難航しました。しかし、ローリンソンから研究ノートを譲られたノリスは1855年までにはその大部分を解読することに成功しました。これらの結果は楔形文字と古代メソポタミアの研究に大きな進展をもたらしました。


This is a photo of a monument in Iran identified by the ID
Sepideh Shahbazi - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


Darius (Behistun relief)
Leen van Dorp - Livius.org Provided underCC0 1.0 Universal license (notice under the photograph in the description page of the photograph)., CC0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

内容

 ベヒストゥン碑文の文章は、アケメネス朝の王ダレイオス1世(在位:紀元前522年-紀元前486年)がその出自、支配する領域、アウラマズダー神から委ねられた王位、反乱の鎮圧について同語反復的な表現で自ら語るというスタイルを取ります。碑文はまず冒頭でアケメネス以来の家系を記し、ダレイオス1世が正統な王家の血統に連なる事を示します。

 余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサ(ペルシア)の王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。

 王ダーラヤワウは告げます、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ、アリヤーラムナの父はチャイシュピ、チャイシュピの父はハカーマニシュ。

 王ダーラヤワウは告げます、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれます。往昔よりわれらは勢家です。往昔よりわれらの一門は王家でした。

 王ダーラヤワウは告げます、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王です。

 王ダーラヤワウは告げまっす、アウラマズダーの御意によって余は王です。アウラマズダーは王国を余に授け給いました。

 -ベヒストゥン碑文古代ペルシア語版、第一欄冒頭より。

 続いて、ダレイオス1世が支配していたアケメネス朝の版図を記します。

 王ダーラヤワウは告げます、余に帰属したこれらの邦々-アウラマズダーの御意によって余はその王となりました。パールサ、ウーウジャ、バービル、アスラー、アラバーヤ、ムドラーヤ、海辺の人々、スパルダ、ヤウナ、マーダ、アルミナ、カトパトゥカ、パルサワ、ズランカ、ハライワ(アレイア)、ウワーラズミー、バークトリ、スグダ、ガンダーラ、サカ、サタグ、ハラウワティ、マカ、計、二十三邦(ダフユ)。

 -ベヒストゥン碑文古代ペルシア語版、第一欄冒頭より。

 そしてカンビュセス2世が兄弟のスメルディスをひそかに殺しましたが、その後にガウマータという人物がスメルディスを自称してカンビュセス2世から国を奪い、王家の人物を粛清したこと、しかしダレイオス1世がアフラ・マズダーの加護によってガウマータを倒して王位についたこと、その後に各地で反乱が起きたがそれらを鎮圧したこと、とんがり帽子のサカに遠征したことなどを記します。この反乱の鎮圧はダレイオス1世自身の系譜の提示と並び碑文の主題であり、最大の分量を占めます。

 また、ダレイオス1世は、この碑文に登場する「至高神アウラマズダーの御意によって、王となりえた」と記し、一種の王権神授説を示しています。このアウラマズダーは一般にゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを指すとされ、ゾロアスター教が国の権威であることが示されているとされます。

 ただし、アケメネス朝時代の宗教をゾロアスター教と定義することについては議論があり、様々な説が提出されています。いずれにせよ、アケメネス朝時代の「ゾロアスター教」は後のサーサーン朝時代のゾロアスター教や現代のゾロアスター教とは大きく異なった姿をしていたと考えられており、また一元的な国教の存在を想定することはできないと考えられています。

 第四欄の末尾には、この碑文の内容が粘土板と皮革に転写され読み上げられたこと、そして支配下にある諸邦へ送付されたことが記されており、先に述べたエレファンティネ島のアラム語版やバビロニアのアッカド語版断簡はこれの実物と見られます。


Bistun inscription
Source:Wikimedia Commons

◆ベヒストゥンの世界遺産への登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用)。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。



世界遺産9へつづく