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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

イラン1 概要・歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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イラン
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 次はイラン1です。

◆イラン




Source:Wikipedia

概要

 イラン・イスラム共和国(ペルシア語: جمهوری اسلامی ایران‎)、通称イランは、西アジア・中東に位置するイスラム共和制国家です。ペルシア、ペルシャともいいます。

 2017年の国勢調査によると人口は約8千万人であり、その多さは世界で17位です。

 1,648,195 平方キロメートル(km2)の総面積は、中東で2番目に大きく、世界では17位です。北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接します。

 また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面します。同国はユーラシアと西アジアの中心に位置し、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所にあります。首都であるテヘランは同国の最も大きな都市であり、経済と文化の中心地でもあります。

 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教です。世界有数の石油の産出地でもあります。

 イランには文化的な遺産が多く存在し、ユネスコの世界遺産には22個登録されています。これはアジアでは3番目、世界では11番目に多いと言えます。

 多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人(61%)、アゼルバイジャン人(35%)、クルド人(10%)、ロル族(6%)です。

国名

 イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできましたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていました。

 1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に対して公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られました。

 1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めました。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められました。

 現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران です。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」、通称イランであり、漢字表記では「伊蘭」とも当てています。

歴史

古代



2500年の歴史を経てペルセポリスの遺跡は訪れる人々を魅了する。
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Source:Wikimedia Commons

 イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まります。アーリア人の到来以降、王朝が建設され、やがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興します。

 紀元前550年にキュロス大王がメディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国しました。紀元前539年にバビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念としました。

 アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされましたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝(紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入りました。

 シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反しました。

 パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続きました。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年にシャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしています。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国やイスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えました。

イスラーム化


9世紀から11世紀のイスラームの黄金時代と呼ばれる時代、イランはその中心地でした。
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Source:Wikimedia Commons

 7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国のヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊しました。

 636年のカーディスィーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡しました。

 イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられました。

 873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系のブワイフ朝はシーア派イスラームの十二イマーム派を国教とした最初の王朝となりました。

 11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝やセルジューク朝やホラズムシャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語を外交や行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えました。

 1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃しました。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれました。


イラン2へつづく

North part of Tehran photographed from the top of Milad tower in a clean air. On Nature Day people leave
the city to go out into the countryside and the number of cars decreases. Because of that, favorable wind
and after three days of rain, it was possible to photograph Tehran in its cleanest condition.
Source:Wikimedia Commons