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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 イラン10 宗教・教育

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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イラン
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 次はイラン10です。

◆イラン10

宗教

宗教構成(イラン)

Source:Wikipedia

 イスラム教(シーア派) 90%、イスラム教(スンナ派) 9%、その他 1%です。

 大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)です。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハーイー教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがあります。

 このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当します。

 これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはありませんが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもあります。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となります。

 一方、バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史があります。バハーイー教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害[要出典]されています。

 ホメイニー自身もたびたび、バハーイー教を「邪教」と断じて禁教令を擁護していました。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言えます。またマズダク教は弾圧されて姿を消しました。

教育

 2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)であり[65]、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっています。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出されました。

 主な高等教育機関としては、テヘラン大学(1934)、アミール・キャビール工科大学(1958)、アルザフラー大学(1964)、イスラーム自由大学(1982)、シャリーフ工科大学などの名が挙げられます。

教育制度

 イランの教育制度は次の四段階に分けられます。

①初等教育(دبستان、小学校)

 学年暦の始め、メフル月一日に満6歳になっていれば入学できます。5年間の義務教育であります。昔は小学児童の数が多すぎて、二部制、時には三部制の授業が行われたこともあります。

 遊牧民のいる地域では、時々普通の黒テントではなく、白い丸型のテントが目につきます。これは季節によって移動するテント学校であります。

②進路指導教育(راهنمایی、中学校)

 ペルシア語の名称が指すように、進路指導期間であります。11歳よりの3年間であります。この3年間の学習の結果に基づき、次への進学段階で、理論教育と工学・技術・職業のどちらかのコースに分けられます。

③中等教育(دبیرستان、高等学校)

 4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では、第一年度は人文科学科と実験・数学科とに分かれ、第二年次以降は前者はさらに①文化・文学専攻と②社会・経済専攻に、また、後者は①数学・物理専攻と②実験科学専攻に分かれます。

 この3年を修了した後に、4年目は大学進学準備過程(پیش دانشگاهی)に在籍する。一方、大学に進学しない技術・職業家庭では、工学、技術、農業の三専攻に分かれる。修了すると卒業証書(دیپلم)が与えられる。

④大学(دانشگاه、単科大学はدانشکده)

 全国共通試験(کنکور)を受けて、進学先・専攻が決まります。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争があります。このため予備校が繁盛しています。受からなければ、男子は兵役に就きます。

 イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されています。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料です。

 それ以外の教育機関

①パヤーメ・ヌール(光のメッセージという意味)は、通信教育大学で、イラン各地に140のセンターを持っています。

 学生数は約20万人であり、授業料は私学・イスラーム自由大学より安いのです。センターによっては、女学生が8割に達するところがあります。外国在住の学生は、60名前後、なかには日本人もいます。

②私学・イスラーム自由大学(دانشگاه آزاده اسلامی)は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献しています。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気があります。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取ります。国立に受からなかった学生が進学することが多くなっています。

③大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセ(مدرسه)です。外国語学校、コンピューター学校などの各種学校に当たるものはモアッセセ(مؤسسه)といいます。

 そのほかに幼稚園(کودکستان)、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがあります。

イランの教育スタイル

 イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育です。「学ぶ・勉強する」は、درس خواندن、要するに、「声を出して教科書を読む」ことです。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまりまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記します。

 森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げています。

①小学校での授業方法

 現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は、三つの段階に分かれています。

 一つの段階は、「教える」(درس دادن)で、二つ目の段階は「読む」(درس خواندن)であり、三つ目の段階は「問う」(درس پرسیدن)であります。

 まず、「教える」段階では、教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませます。読んでいる途中で、難しい言葉の解説を行ったり、分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりします。

 とにかく、この段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階です。

 その段階が終わると、次は「読む」段階です。これは、授業中にすることではなく、帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことです。

 家に帰った児童は、それぞれ教科書を暗記するときに、家族の誰か、特に母親に手伝ってもらうケースが多いと言えます。というのも、イランの場合、教科書の暗記というのは、教科書の内容を文字で書けることを意味していません。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのです。

 日本の宿題は文字を書くことが多いため、家族がそれを手伝う必要はほとんどありません。しかし、イランの場合、宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になります。

 第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いです。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問します。

 この質問の答えは、口頭で行われます。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはなく。教科書の2~3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要があります。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっています。

②私立男子中学校で行われた科学発表会

 研究発表を行うにあたって、発表内容を全て暗記し、一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていました。もし、このような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることだと思います。

 イランにおいて、研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではありません。しかし、そういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり、学校全体やグループを形成して行われるものではありません。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通です。

③イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書

 そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかります。

 一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれています。

 最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはありません。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教えます。


イラン11へつづく

North part of Tehran photographed from the top of Milad tower in a clean air. On Nature Day people leave
the city to go out into the countryside and the number of cars decreases. Because of that, favorable wind
and after three days of rain, it was possible to photograph Tehran in its cleanest condition.
Amirpashaei - استودیو پاشایی, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons