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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

イラン2 歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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イラン
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 次はイラン2です。

◆イラン

サファヴィー朝期


サファヴィー朝の建国者、イスマーイール1世。サファヴィー朝の下で
シーア派イスラームの十二イマーム派がペルシアの国教となり、現在
にまで至るイランのシーア派化の基礎が築き上げられた。
Cristofano dell'Altissimo - http://bss.sfsu.edu/behrooz/Safavid.htm [1], パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons


 1501年にサファヴィー教団の教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開きました。

 シーア派イスラームの十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服しました。また、レバノンやバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進みました。

 1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われました。

 第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出しました。1616年にアッバース1世と英国東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、英国人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化されました。

 しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年のガスレ・シーリーン条約でオスマン朝との間の国境線が確定しました。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後は政治的混乱が続きました。

ガージャール朝期


ガージャール朝の下で宰相を務めたミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール。アミーレ・キャビールは宰相として上からの改革を図ったが、近代化改革に無理解な保守派の宗教勢力と国王ナーセロッディーン・シャーの反対に遭ってその改革は頓挫し、内憂外患に苦しむ19世紀イランの自力更生の道は閉ざされた。
Muhammad Ibrahim Naghashbashi (? - 1851), Photo:Monfie 2013 - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 1796年にテュルク系ガージャール族のアーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアは英国、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになりました(グレート・ゲーム)。

 ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年に英国が接近しましたがロシア・ペルシア戦争(第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスが英国に替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約(1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアやアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いた英国が翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結しました。

 しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際しての英国によるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、英国による支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約(1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まりました。

 こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫しました。

 1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争にて英国がアフガニスタンに苦戦した後、英国は難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得ました。

 更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドがバーブ教を開くなど内憂にも見舞われました。

 モハンマド・シャーの没後、1848年にナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されましたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折しました。

 ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征は英国のイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた[15]。

 こうして英国とロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及びましだ。

 1872年のロイター利権のような大規模な民族資産の英国への譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けまし。

 第二次アフガン戦争(1878年–1880年)では、ガンダマク条約(1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、英国軍は撤退しました。

 このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーが英国人のジェラルド・タルボトにタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派のウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功しました。

 第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年にモザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位しました。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザムが留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかったのです。

 しかしながら1905年に日露戦争にて日本がロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制と大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まりました。

 イラン人は国王に対して議会(majles)の開設を求め、これに圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会(Majiles-e Shoura-ye Melli)が召集されました。

 しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者のストライキや農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだ英国とロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年にロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのでした。

 なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見されています。


イラン3へつづく

North part of Tehran photographed from the top of Milad tower in a clean air. On Nature Day people leave
the city to go out into the countryside and the number of cars decreases. Because of that, favorable wind
and after three days of rain, it was possible to photograph Tehran in its cleanest condition.
Amirpashaei - استودیو پاشایی, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons