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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 イラン3 歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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イラン
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 次はイラン3です。

◆イラン

 1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年の第一次世界大戦勃発を迎えると、既に英国軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作やチフスによる死者が続出しました。

 1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出しました。

 これに危機感を抱いた英国は単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図りました。

 この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズでアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されました。

 しかし、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月に英国軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出しました。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。

パフラヴィー朝期


パフラヴィー朝のレザー・パフラヴィーとモハンマド・レザー・パフラヴィー父子(1941年)。
不明 - http://www.iichs.org/index_en.asp?id=1663&img_cat=103&img_type=0, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons

 パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィーは不平等条約破棄、軍備増強、民法、刑法、商法の西欧化、財政再建、近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの事業を進めましたが、1931年に社会主義者、共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた官僚制と軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件や1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行いました。

 なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更しています。

 1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしましたが、1941年8月25日に連合国によってイラン進駐を被り、イラン軍は敗北し、英国とソ連によって領土を分割されました。

 イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党のトゥーデ党が結成され、1943年11月30日に連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談を開くなど、戦後イランを特徴づける舞台が整えられました。

 また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日にアゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されましたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合されました。

 モハンマド・モサッデク首相。1950年代初頭に英国系アングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図りましたが、イランによる石油国有化に反対する国際石油資本の意向を受けた英国とアメリカ合衆国、及び両国と結託した皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーによって1953年に失脚させられました。

 1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任しました。


 モサッデグ首相は英国系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)と英国秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦、英: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わりました。
不明 - www.bbcpersian.com, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons

 このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝の皇帝(シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功しました。1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発しました。特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めました。

イラン・イスラーム共和国

 シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立されました。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われました。

 これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものでした。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなりました。

 革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発しました。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続きました。

 国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものです。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目されました。

 2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任しました。


イラン4へつづく

North part of Tehran photographed from the top of Milad tower in a clean air. On Nature Day people leave
the city to go out into the countryside and the number of cars decreases. Because of that, favorable wind
and after three days of rain, it was possible to photograph Tehran in its cleanest condition.
Amirpashaei - استودیو پاشایی, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons