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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

(歴史) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆明 (歴史)

 明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号しました。

 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配しました。


出典:中国歴史地図庫


出典:Wikipedai


明の位置

歴史

朱元璋の建国



朱元璋

 モンゴルの建てた元朝は、14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下しました。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がりました。

 紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国しました。

 洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北平)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一されます。江南から誕生した王朝が中国を統一しました。

 洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注ぎましだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築きました(詳細は胡藍の獄を参照)。

 1398年洪武帝が崩じて建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになりました。北平を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王は追い詰められ、遂に反乱を起こしました。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位しました(靖難の変)。これが永楽帝です。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北平改め北京へと移りました(ただしその後も南京に南京六部(中国語版)を置き、副都的な扱いをしていまし)。

領土の拡大


永楽帝

 永楽帝は、北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していましたが、永楽帝は遠征により制圧しました。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功しました。南方ではベトナムを陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服しました。

 さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせました。

 永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは征服からわずか20年で黎朝が独立しました。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価されます(仁宣の治)。

明の衰亡


張居正

 1572年、わずか10歳の万暦帝が即位しました。

 はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られましたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄しました。在位は48年に及びますが、途中日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻しました。

 このような時局を憂えた人士が無錫の東林書院に結集し東林党という政治集団が作られました。以後、東林党と反東林党の政争が起こります。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねるなど、政情の混乱が続きました。魏忠賢によって東林書院は閉鎖され、東林党の人士も投獄・殺害されました。

 天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていました。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、さらに後金軍の侵攻も激しさを増しました。名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い惨殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫りました。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡しました。

 同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗しましたが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされました。

 福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗しましたが、鄭氏政権は後に清に降伏していましす。明の遺臣としては、このビルマ(コーカン族)、台湾のほか、広南朝ベトナムに亡命し、メコンデルタへの植民として活用された者などがあります。

 南明は日本の徳川幕府に何度も援軍の派遣や物資援助を要請しています。御三家や薩摩藩は出兵に対して乗り気であったとの記録があります。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため鄭氏の交易利権(長崎貿易)を黙認することによって間接的に援助しました。

 1724年、明の代王朱彝の孫、朱之璉(注:中文)が清の雍正帝より一等延恩侯の爵位を授けられ、以後はその子孫に明の祭祀が引き継がれました。


明と周辺諸国


明・文化つづく