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パキスタン・世界遺産1A

モヘンジョダロ考古遺跡(1980年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次はパキスタンの世界遺産1Aです。

モヘンジョダロ考古遺跡1A(1980年)


Source:Wikipedia


モヘンジョ・ダーロ考古遺跡
“大浴場”こと沐浴施設。 後方にクシャーナ朝時代の仏塔を望む。(世界遺産)
オリジナルのアップロード者は英語版Q52M.Imranさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, CC 継承 1.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


 モエンジョ=ダーロ(ウルドゥー語:موئن جو دڑو、シンド語:موئن جو دڙو、英語: Moenjodaro, Mohenjo-daro)は、インダス文明最大級の都市遺跡です。モヘンジョダロ、モエンジョダロ、モエンジョダーロ、モヘンジョ・ダーロ、モヘンジョ・ダローなどの表記があります。

 紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されます。しかしその後は短期間で衰退しました。原因としてさまざまな説があげられますが、近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられています

呼称

 モヘンジョ=ダーロは現地の言葉で 「死の丘」 を意味し、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域でした。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすら得られていません。

都市の特徴

 遺跡は東西二つの遺丘からなります。

 東方に市街地が、西方に城塞が広がっています。規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されますが、今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性があります。

 遺跡は整然とした都市計画を示し、道路は直角に交差し、碁盤の目のように細分されていました。水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在しており、水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学は進歩していました。

 また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていました。以上のことは、この地に確固たる社会構造、強力な階級制度と中央集権制度が存在していたことを意味します。


「神官王」と呼ばれる胸像 ソープストーン(en)製、高さ17.5cm。
Mamoon Mengal - world66.com, CC 表示-継承 1.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

東丘の市街地

 市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたようです。一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5~3メートルほどの小路でさらに分けられていました。

 市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明です。ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっていまする。

 家屋は大小さまざまですが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的でした。各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていました。

西丘の城塞


踊り子の塑像
Joe Ravi, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 モエンジョ=ダーロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれていますが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られません)は、ハラッパーの場合と同様、堅固な城壁をめぐらし、その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、東丘を見下ろすように一段高くつくられています。

 基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、おそらくは市制を司ったであろう公共的な[要出典]建造物が建ち並んでいます。

 ほぼ中央には長辺12メートル、短辺7メートル、深さ2.4メートルの、内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、これに接するように、長辺45メートル、短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在します。

 当初は、この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたと推測されました。しかし穀物倉と呼ばれる建物は湿気のある大浴場に近く、木製の建物の痕跡もなく、穀物を運び入れるスペースがなく、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられています。

 大浴場はある種の祭儀の場ではないか、と考えられていましたが、近年ではさらに、この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されています。この二つが結びつくことで、再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、という指摘がなされています。

 城塞は、政治センターとしての役割ばかりではなく、宗教センターの役割も果たしていたようです。

農業

 このインダス河流域の都市社会では、農業が重要な役割を果たしていました。人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていました。広い道路や傾斜路が整備されていたので、収穫物を載せた荷車が容易に往来できました。輸送手段とともに食物の保存技術も発達しました。

遺跡を巡る現代史


地図
Source:Wikimedia Commons

 文明遺跡としての発見は、1922年、インド考古調査局員であった歴史学者R・D・ボンドパッダーエ(Rakhaldas Das Bandyopadhyay (ベンガル語:রাখালদাস বন্দোপাধ্যায়、異名:Rakhaldas Banerji、Rakhaldas Banerjee [R・バネルジ、R・バナージー])の発掘調査によってなされました。

 1980年、パキスタンの申請で「英語名:Archaeological Ruins at Moenjodaro (和訳名:モエンジョダーロの考古遺跡)」の名でユネスコ世界遺産の文化遺産に登録されました。

 遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けていますが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まりません。そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けています。

ユネスコ世界遺産 登録基準

 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用)。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。


世界遺産1Bつづく