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シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

パキスタン・世界遺産2A

タキシラ(ガンダーラ遺跡)(1980年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次はパキスタンの世界遺産2Aです。

タキシラ(1980年) 2A



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Source:Wikimedia

 タキシラはパキスタン・パンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構です。

 その歴史は紀元前6世紀まで遡ることが可能であり、六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派、また、インドの仏教の中心の役割を果たしてきました。1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 タキシラは歴史的に3つの重要な交易路が交差する場所に位置していました。1つはマガダ国の首都パータリプトラから続く道であり、1つがバクトリアやペシャーワルといった北西から続く道、最後の1つがシュリーナガル、マーンセヘラー、 ハリープル渓谷を経由してシルクロードへとつながる道です。

 タキシラは、パキスタンの首都イスラマバードの西、もしくはラーワルピンディーから北西にそれぞれ約35kmの、グランドトランク・ロードから少し外れた場所にあります。

歴史

 伝説上では、タクシャシラという王国がタキシラを中心とする地域を支配したとされます。サンスクリットでは、タクシャシラとは、タクシャ王に所属する土地を意味します。

 タクシャは、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するバラタの子供とされます。また、インドを代表するもう1つの叙事詩『マハーバーラタ』では、クル王国の戴冠がタキシラで行われたと伝えられています。

 タキシラの始まりは、アケメネス朝における一州として出発しています。時代としては、ダレイオス1世の時代とされていますが(en:Achaemenid invasion of Indus Valley)、アケメネス朝によるタキシラの支配は長いものではありませんでした。

 また、パンジャーブ州には考古学上、アケメネス朝時代の遺構は残されていません。 紀元前518年にアケメネス朝の支配が始まったとされています。 ダモーダル・ダルマーナンド・コーサンビーの説によれば、タキシラとは「大工」を意味する「タクシャカ」という言葉と関わりがあり、この「タクシャカ」はナーガ族の別称であったと思われます。

 紀元前326年、アケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王がヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス川流域に侵入しました。当時のパンジャーブ地方は小王国が乱立していた状態であり、タキシラを支配していたアーンビ(ヒンディー語: Ambhi、古代ギリシア語: Taxiles)は、アレクサンドロスに加勢しました。

 その結果、アレクサンドロスは、パウラヴァ(Paurava)の王で政敵ポロスを撃破することに成功しまし。その後、アレクサンドロスは、将軍Eudemusを派遣しサトラップとして派遣していたPeithonをインドから引き上げさせました。

 紀元前321年、チャンドラグプタが現在のパンジャーブ地方を含む北西インドの征服に着手を開始しました。その後、チャンドラグプタは、マウリヤ朝を建国するにいたったのです。

 タキシラを含むパンジャーブ地方は、マウリヤ朝の支配下に入りました。チャンドラグプタの孫であるアショーカ王の時代には、タキシラは仏教の中心地となりました。とはいえ、必ずしもタキシラ自体は、マウリヤ朝に完全に服従していたというわけでもなく、たびたびマウリヤ朝に対しての反乱が起きました。

 タキシラはマウリヤ朝の滅亡の現場にもなりました。紀元前185年、最後の王であるブリハドラタが部下によって暗殺されました。 このころ、パンジャーブ地方に隣接するガンダーラ地方ではデメトリオス1世率いるグレコ・バクトリア王国の活動が活発となっていました。

 バクトリアは、ガンダーラを征服し、さらに、パンジャーブ地方を経てインダス川流域を征服しました。デメトリオス1世は、タキシラの対岸にシルカップ(Sirkap)を建設しました。インド・グリーク朝とも呼ばれるこの時代、数回の王朝交代が起きましたが、その間、タキシラは王朝の都として繁栄を極めました。この時代に鋳造された貨幣がタキシラの遺跡から出土しています。


タキシラで発掘された硬貨
I, PHGCOM, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 インド・グリーク朝を滅亡に追いやったのはスキタイ人です。紀元前90年、スキタイ人の部族長が最後のギリシャ系の王をタキシラから追放したまし。

 紀元前25年には、ゴンドファルネスがタキシラを支配し、その後、インド・パルティア王国を建国することで、パルティアから離脱しました。その際にもタキシラはインド・パルティア王国の首都として機能しました。

 76年には、クシャーナ朝が建国されます。その後、クシャーナ朝の下、ガンダーラ美術が開花します。しかし、5世紀になると遊牧民族であるエフタルの侵入を受け、タキシラに建設された仏教寺院やストゥーパは破壊されてしまったのです。

 タキシラの発掘は、1872年にイギリス人考古学者アレクサンダー・カニンガムによって始まりました。数多くのガンダーラ美術の傑作がタキシラから発掘され、1913年から1934年の間には、ジョン・マーシャル卿 (John Marshall) による発掘作業が行われました。マーシャル卿による発掘された出土品はタキシラ博物館に展示されています。

考古遺跡の概要

 タキシラ考古遺跡は、紀元前6世紀からエフタルの破壊による5世紀までの約1000年間の歴史を刻んでいます。ヒンドゥー教及び仏教の宗教センターの役割を果たしつつも、パンジャーブ地方における政治・経済の中心地であった側面を持つ都市遺跡です。

 以下、時代を追って、タキシラ考古遺跡の概要を説明します。

ビール・マウンド

 ビール・マウンド(Bhir Mound)は、タキシラの都市遺跡の中でも最も古い遺構です。「混雑した丘」を意味します。南北1100m、東西670mの範囲に広がっていました。4つの層から形成され、一番古い層は、アケメネス朝時代のものです。第2層はマウリヤ朝時代のものです。バクトリア王国時代にシルカップが建設されたため、放棄されました。

ダルマラージカー

 ダルマラージカー(Dharmarajika)は、パキスタンにおける最古の仏教遺跡の1つであり、建設は、アショーカ王の時代に遡ります。仏教に帰依していたアショーカ王は、仏陀の聖遺物を収集し、8つのストゥーパに分納しました。ダルマラージカーは、そのようなストゥーパの1つであり、高さ15m・直径50mのメイン・ストゥーパの周囲には、小ストゥーパ群が建設されました。小ストゥーパの建設は4世紀まで続き、また、多数の祠堂や僧院が建設されました。

 ダルマラージカーは、西暦30年ごろの大地震を経験しているが、カニシカ王の時代に大幅な補修を受けています。メイン・ストゥーパのドーム部分は、仏教の右中間を表現した7つの傘が積み上げられています。また、彫像を収める基部の支柱はコリント様式が用いられています。

 ダルマラージカーでは、インド・グリーク朝の王ゾイロス2世を刻んだ硬貨も発掘されています。

ジャンディヤール

 ジャンディヤール(Jandial)は紀元前2世紀ごろに建設されました。バクトリアによる建設であり、ギリシア神殿の様式を持っています。正面のポーチを4本のイオニア様式の支柱が支えていたとされます。ジャンディヤールの神殿はジョン・マーシャルの手によって発掘され、マーシャルはここの神殿をゾロアスター教の神殿ではないかと推測しています。紀元前75年頃のサカ族の攻撃で神殿は放棄され、30年ごろの大地震で崩壊したとされます。

シルカップ


シルカップのストゥーパ遺跡。ギリシャ風のコリント式装飾が特徴。
not stated - [1], CC 表示-継承 1.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 シルカップはタキシラの対岸に位置し、バクトリア人によって建設されました。2世紀にクシャーナ朝により、シルスフが建設されるまで首都としての機能を有していました。町を南北に貫くメイン・ストリートの存在、碁盤目状の都市形態であり、家屋は石灰岩のレンガを積み上げた上で、その上を泥や壁土で塗装したものも見受けられます。

 北に置かれたメイン・ゲートから南に100mのところには仏教寺院が設けられ、さらに、南には双頭の鷲のレリーフを彫りこんだストゥーパが建設されていました。インド、ギリシア、イランの3つの文化の融合を示す象徴です。都市の南部は王宮であり、謁見室やハレムが設けられました。

ジョーリヤーン


ジョーリヤーンのパノラマ
CC 表示-継承 2.5, リンク
Source:Wikimedia Commons

 タキシラ考古遺跡の北東に位置するジョーリヤーン(Jaulian)は、タキシラを一望することができる丘の上にある考古遺跡です。2世紀のクシャーナ朝時代に建設されたジョーリヤーンにもまたストゥーパと僧院が建設されました。

 メイン・ストゥーパの周囲には小ストゥーパ群が展開していると同時に、様々な彫刻群が施されています。メイン・ストゥーパの東側に僧院が広がっていました。僧院の在りし日の姿は中庭を僧坊が囲む形で建設されていました。ジョーリヤーンで発見された瞑想する仏陀の坐像はグレコ・インド様式からグプタ様式への過渡期に作られたものです。

ピプラン

 ジョーリヤーンの西側に位置するピプラン(Piplan)の僧院は東西で建設された時期が異なります。東側の僧院の建設は1世紀の建設です。中庭のストゥーパを囲む形で僧坊が並びます。西側の僧院の建設は4世紀ごろとされます。


世界遺産2Bつづく