シルクロードの今を征く Now on the Silk Road パキスタン・世界遺産3 タフテ・バヒーの仏教遺跡群と サハリ・バハロールの近隣都市遺跡群(1980年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー(西アジア) パキスタンの世界遺産 世界遺産1A 世界遺産1B 世界遺産1C 世界遺産2A 世界遺産2B 世界遺産2C 世界遺産2D 世界遺産2E 世界遺産3 世界遺産4A 世界遺産4B 世界遺産4C 世界遺産4D 世界遺産5 世界遺産6A 世界遺産6B 世界遺産6C 世界遺産6D 次はパキスタンの世界遺産3です。 ◆タフテ・バヒーの仏教遺跡群とサハリ・バハロールの近隣都市遺跡群(1980年) タフテ・バヒーの仏教遺跡群とサハリ・バハロールの近隣都市遺跡群は、パキスタンの世界遺産の一つであり、1世紀から7世紀のガンダーラにおける僧院や都市建築の様子を伝える遺跡群です。カイバル・パクトゥンクワ州に残るそれらの遺跡群は、1980年にUNESCOの世界遺産リストに登録されました。 構成資産 この物件は名称が示すように、タフテ・バヒーの仏教遺跡群と、サハリ・バハロールの都市遺跡群とで形成され、両者はおよそ5 キロメートル離れています。 タフテ・バヒー タフテ・バヒーは、マルダン地区に残る仏教遺跡です。タフテ・バヒーは「源泉の玉座」を意味し[注釈 3]、遺跡が作られた小高い丘に湧いていた泉に由来するといいます。遺跡のある範囲の高さは 36.6 m から152.4 m です。 この寺院はクシャーナ朝のカニシカ王により、2世紀半ばに建造されました。ガンダーラには5世紀にエフタルが侵攻しましたが、その折にも小高い丘にある地の利などによって無傷で済んだのです。 タフテ・バヒーの寺院は、その後も密教の中心地として7世紀まで存続しました。ガンダーラはマトゥラーと並び、仏像の起源とされる地域です。ギリシア美術とヒンドゥー美術を融合させたその様式は、他地域の仏像作りにも強い影響を及ぼしました。タフテ・バヒーからも、ガンダーラ様式の仏像が出土しており、各地の博物館収蔵のガンダーラ様式の仏像にはタフテ・バヒーから移送されたものも少なくありません。 寺院には、訪れた仏教徒たちが奉納した小さなストゥーパが35基並ぶ「ストゥーパの中庭」(多塔院)、コリント式の柱に飾られた祠堂、3段の階段状の基壇を備えた主ストゥーパが立つ主塔院、さらには3メートルほどの仏像が5体並んでいた壁面、瞑想のための小部屋、食堂、講堂などがあったと推測されています。 ただし、この遺跡が修復されたのは、20世紀初頭にイギリスの考古学者が再発見した後のことでした。遺跡の保存状態は良好と言われますが、小ストゥーパも主ストゥーパも残っているのは基壇のみで、3メートルの仏像も足しか残っておらず、壁面の彫刻やフレスコ画の類もほとんどが失われています。また、かつては寺院全面が白い漆喰で覆われていたとも推測されていますが、その漆喰も断片的にしか残っていません。 その一方で、伽藍配置がどのようだったかは読み取ることが可能です。樋口隆康はタフテ・バヒーの遺跡について、「いろいろの種類からなる仏教寺院の構成を、最も典型的に具現したものとして注目される」と評しています。 鳥瞰した写真 Drsareer1 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 主塔院 Muhammad Zahir - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 多塔院 Muhammad Zahir - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 講堂 Shahabuddin648 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 小部屋 Fahd Mir Jan - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons タフテ・バヒーの仏像(アジア美術館、ベルリン) Gryffindor - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる Source:Wikimedia Commons サハリ・バハロール サハリ・バハロールは、タフテ・バヒーのある岩山の近く、9 m の高さの丘に築かれた都市の遺跡です。この町はタフテ・バヒーの僧侶たちの住居や食料庫、さらには巡礼者たちの宿を提供する機能を含み、タフテ・バヒーの寺院を支える役割を果たしていたと考えられています。 その中心は強固な城壁に囲まれた都市で、5世紀半ばに異民族の侵攻を受けた際にも無事だったとされています。しかし、12世紀にイスラーム勢力の侵攻の際に破壊され、町の建物(2階建てだったと考えられる)も土台以外は残っていません。城壁の周辺には僧院や塔院の遺跡が残り、石やスタッコの仏教彫刻品なども多数出土しています。 1911年には保全のための手続きがとられ始めたが、その後も地元住民による宅地開発、農地開発などによる侵害を受けており、保存状況への懸念が示されています。初期の世界遺産委員会で登録されていたこともあり、緩衝地域が適切に設定されていないことについても、対応の必要性が指摘されています。 サハリ・バハロール Shahidmrd - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons かつての城壁跡 Drsareer1 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons サハリ・バハロールの仏像(パトナ博物館) Photo Dharma from Penang, Malaysia - 024 Bodhisattva Meditating, 1c Sahr-i-Bahlol, CC 表示 2.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 世界遺産への登録経緯 1980年の第4回世界遺産委員会で登録されました。モヘンジョダロの考古遺跡、タキシラとともに、パキスタンの世界遺産として最初に登録された3件のうちの1件です。なお、文化遺産の諮問機関です。国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) も「登録」を勧告していましたが、その勧告書はタフテ・バヒーのみに言及しており、サハリ・バハロールには一言も触れられていませんでした。 登録名 この世界遺産の正式登録名は、英語: Buddhist Ruins of Takht-i-Bahi and Neighbouring City Remains at Sahr-i-Bahlol およびフランス語: Ruines bouddhiques de Takht-i-Bahi et vestiges de Sahr-i-Bahlol です。(見比べて明らかなように、フランス語名には英語名の Neighbouring City に該当する語がありません)。 登録基準 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用)。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 世界遺産センターが示している適用理由は、この遺跡群が「その立地、建築形態、デザイン、構造上の技術の点で、1世紀から7世紀のガンダーラ地方における僧院および都市共同体の発展に関する最も特徴的な例証です。」[21]ことによる。 観光 タフテ・バヒーの遺跡へは、ペシャーワルからバスで2時間です。。2001年の観光客数は約27,000人でした。ただし、日本の外務省は、タフテ・バヒーのあるマルダン郡について、「退避勧告」を発出しています(2017年6月時点)。 世界遺産4Aへつづく |