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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

(歴史1) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆清 (歴史)


出典:中国歴史地図庫

 大清帝国(だいしんていこく)、または清(しん)は、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝です。

 首都は盛京(瀋陽、無口伝)、後に北京に置かれました。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、中国語では大清(拼音: Dàqīng、カタカナ転写:ダァチン)と号しました。清朝、清国、清王朝ともいいます。


清の位置
Pryaltonian - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons



出典:Wikipedia

歴史

清の勃興


 17世紀初頭に明の冊封下で、満洲に住む女直(jušen、以下「女真族」)の統一を進めたヌルハチ(満州語: ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ、転写: nurgaci、努爾哈赤、太祖)が、1616年に建国した後金国(amaga aisin gurun)が清の前身です。

 この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字を制定し、八旗制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていました。

 1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至りました。その子のホンタイジ(hong taiji、皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽「制誥之宝」と護法尊マハーカーラ像を譲られ、皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲(manju)に改めました。

清の中国支配

 順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅びました。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破りました。こうして1644年に清は首都を北京(満州語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始(「清の入関」)しました。

 中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げました。清は、初め摂政王ドルゴン(dorgon、ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備しました。


J.H. Stewart Lockhart(骆克) - http://shuge.org/ebook/currency-of-the-farther-east/, CC0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 スレ・ハンの銭。表左「sūre(聡明なる)」、上「han(王)」、下「ni(の)」、 右「jiha(銭)」とある。清朝初期の無圏点満洲文字で記されています。「天聡汗銭」あるいは「天聡通宝」と通称されます。

 少数派の異民族である満洲族の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられます。

 自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事が考えられます。


清・歴史2つづく