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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

楼蘭(ローラン)故城遺跡1

(中国新疆ウイグル自治区)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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イリ・カザフ自治州  展示1 コルラ市 クチャ県1 クチャ県2 展示1 展示2 
タリム盆地
  展示1  楼蘭故城遺跡1 楼蘭2  楼蘭3  展示1  展示2
展示3  展示4  ロプノール 展示1  展示2  展示3   タクラマカン砂漠
ニヤ遺跡  展示1  展示2


 次は新疆ウイグル自治区東部のローラン(楼蘭)です。

◆楼蘭故城遺跡1(新疆ウイグル自治区)


新疆ウイグル自治区


西域におけるローランの位置
出典:NHKBS3 もうひとつのシルクロード「文物変3」 王国を探る


ローランと ロプノールの位置関係
出典:NHKBS3 もうひとつのシルクロード 自然編(3) ロプノールの謎

 楼蘭(ろうらん、Loulan,推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)に、かつて存在した都市及びその都市を中心とした国家です。

 「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えました。

 紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善国(中国語名併音shan shan・日本語名ぜんぜん)と改称しましたが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けられました。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれましたが、1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見されました。


出典:Naverまとめ地図


出典:グーグルマップ

 以下は、楼蘭が栄えたころの中国の「西域」の国々です。なお、安息はイラン、天竺はインドです。


紀元前1世紀の西域諸国。が楼蘭   Source; Wikimedia Commons
 
  上記の地図にある地名(国、王国など)について概説です。

 注) 安息はイラン、大夏は西夏、鳥孫はイシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。

    匈奴(きょうど)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族
    および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心
    とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いています。

    大宛(呉音:だいおん、漢音:たいえん、拼音: Dàyuān)は、紀元前2世紀頃より中央アジア
    のフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。大宛とは広大なオアシスという意味ら
    しい。しばらく中国史書では大宛という名を使用しましたが、『魏書』以降はフェル破洛那国、
    汗国、拔汗那国などが使用されました。


    且末((しょまつこく)は 古代の西域にあった国。チャルチャン県(且末県) - 中国新疆ウイ
    グル自治区バインゴリン・モンゴル自治州の県です。


    精絶(せいぜつ)は新疆ウイグル自治区民豊県の北方約150km,タクラマカン砂漠中にある
    遺跡。2~3世紀の精絶国に比定されます。1901年スタインにより発見されています。


    (大)月氏((げっし、拼音:Yuèzhī))は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央
    アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに
    移動し、大月氏と呼ばれるようになります。大月氏時代は東西交易で栄えました。


    婼羌(きょう、拼音: Qiāng)は中国・新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州に位置
    する県。中国の県級行政区としては最大の面積を有します。タクラマカン砂漠の東南縁部に
    位置し、「さまよえる湖」として知られるロプノールがあります。1986年に?羌より現在の名称に
    改称されました。

    天竺(てんじく)は、インドの旧名。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではありません。

    姑墨(こもく、漢音:こぼく、拼音:Gūmò)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス
    都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区アクス市を意味します。


    康居(:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。
    シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたりま
    す。


    車師(姑師)(しゃし、拼音:Jūshī)かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市
    国家。古くは姑師といい、漢代に車師前王国、車師後王国に分かれ、シルクロード交易の
    要所として栄えた。


    奄蔡(えんさい、拼音:Yǎncài)はかつてカスピ海の西部に存在したサルマタイ系遊牧民族。
    アオルシ,アオルシーともいいカスピ海の西部に存在したサルマタイ系遊牧民族。アオルシ,
    アオルシーとも言い、紀元前1世紀にその存在が確認されている。またい、紀元前1世紀にその
    存在が確認されています。


    呼掲(こけちぜんう、漢音:こけつせんう、拼音:Hūjiēchányú)は、中国,漢代の史料にみえる
    匈奴に滅ぼされた北方の遊牧部族。後世の史料に, 「烏護」などと記されるものにあたる。
    ウイグル族の祖先です。


    莎車(さこ、さきょ)は、中国にかつて存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆
    ウイグル自治区カシュガル地区ヤルカンド県にあたり、タリム盆地の西に位置します。一時期は
    タリム盆地一帯を支配したこともありました

    
歴史


楼蘭出土の木製の梁(3世紀-4世紀頃)。 Source; Wikimedia Commons

 楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではありません。

 古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されています。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)で、その間の歴史は空白です。

 注)楼蘭の美女については、新疆ウイグル自治区博物館、トルファン博物館のミイラを参照のこと

 その手紙は匈奴の君主である冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言しています。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと、そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されます。

 『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉犁の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配したとあります。

中国王朝の時代区分

出典:中国歴史地図庫

小国は大国の間にあり

 紀元前141年に漢で武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じました。この時期に匈奴を攻撃するために西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられています。また張騫はその行き帰りで二度匈奴に捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことがうかがわれます。

 漢は前127年と前121年に衛青と霍去病の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こしました。彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げました。この結果、漢は本格的に西域経営に乗り出した。紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえます。

 こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く派遣するようになりました。

 しかし、大挙増大した漢の人々(中には新興の交易市場に活路を見出した貧民も多かったといわれています)と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、西域諸国では反漢感情が増大しました。特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出ました。

 これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃侯の趙破奴と、楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を行いました。騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられました。このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属しました。ところが西域の要衝楼蘭の漢への服属は匈奴にとっては座視できない事件でした。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めました。

 こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右されました。やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生しました。武帝は大宛の汗血馬を入手することを望んで代価の財物を持たせて使者を大宛に送りましたが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪いました。

 これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣しました(紀元前104年 - 紀元前101年)。この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めました。

 楼蘭王はそれに答えて「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたといいます。武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許されました。以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退して行きました。

鄯善国


Source: Wikimedia Commons

 『漢書』によれば、紀元前92年に上述の楼蘭王が死去したため、楼蘭は漢に人質として出していた王子の帰国を要請しましたが、彼は漢で法律に触れて宮刑に処せられていたために漢は帰国を許可しませんでした。このため別の人物が王となり、彼も漢の下に王子尉屠耆を人質として出し、匈奴にも王子安帰を人質として送りました

 しかし、この新王も間もなく死去すると、匈奴に人質として出されていた王子安帰が帰国して王座を得ました。これに対し漢は入朝を要求して使者を送りましたが、安帰の後妻らは漢が人質として出した王子を帰国させないことを理由として反対し、結局入朝しませんでした。そして相変わらず続く漢使とのトラブルもあり、楼蘭では次第に漢の使節を殺害するという事件も起きるようになりました。

 漢は紀元前77年に大将軍霍光の指示によって平楽監傅介子に親匈奴派の安帰を暗殺させ、人質として長安にいた王弟尉屠耆を新たな国王としました。また国名を「鄯善国」(ぜんぜん)と改称させ、漢軍が楼蘭に駐屯することになりました。そして尉屠耆に対し宮女を妻として与え、印章を与えました。

 ここでわざわざ「鄯善」という新字を作って楼蘭の名を改称させ、印章と妻の授与は楼蘭王国が漢の傀儡となったことを如実に示すものです。特に国内への漢軍駐屯については、尉屠耆が自分の立場の弱いのを心配して自ら漢に依頼したと伝えられています。漢軍は尉屠耆の進言によって伊循城に駐屯することになり、ここは間もなく西域南道における漢の拠点の1つとなりました。

 楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の僮僕都尉であった日逐王が漢に降るという事件が発生しました(紀元前60年)。この結果、漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、新たに西域都護を置いて鄭吉を都護としました。以後漢の西域支配は王莽によって前漢が終焉するまで継続し、鄯善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けたと考えられます。


楼蘭2つづく