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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

楼蘭(ローラン)故城遺跡2

(中国新疆ウイグル自治区)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編 
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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ロプノール  展示1  展示2 展示3 楼蘭故城遺跡1 楼蘭2  楼蘭3 
展示1  展示2  展示3  展示4  

 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は新疆ウイグル自治区東部のローランです。

◆楼蘭故城遺跡2(新疆ウイグル自治区)

西域の動乱

 漢の繁栄による東西貿易の発展は西域の経済を大いに潤しました。26ないし36国といわれた西域諸国は前漢末には55国に増加しています。これは既存の王国が細分化したのではなく、交易の活況に伴って新たなオアシス都市国家が形成されたものであると言われています。漢の力による政治状況の安定もこういった経済の活況に拍車をかけました。

 こういった中で漢では王莽のクーデターによって新たに王朝が成立しました。王莽の西域政策は現地で不評だったといわれ、楼蘭を含む西域諸国の大半(莎車国を除く)は再び匈奴(北匈奴)に帰順しました(ただし、間もなく新は倒れ後漢が成立します)。

 しかし、北匈奴は西域諸国が漢の支配下にあって貢納がなかった事を責め、「未納」となっていた貢納品を取り立てたために西域諸国は再度漢に服属することを求めるようになりました。また、『後漢書』によれば、西域諸国の中でも最も強勢を誇った莎車国(現在のヤルカンド県)の王賢は、当初鄯善王安などと共に後漢に朝貢を行い、その結果光武帝から西域都護の印綬を受けましたた、敦煌太守裴遵が「夷狄に大権を与えるべからず」としてこの印綬を奪いました。

 このため賢は漢と敵対するようになり、独自に大都護を称し、北匈奴の影響力を排除して西域諸国を服属させましたが、重税を課したために西域の18国が漢への帰順を求めたといいます。これらの事情により西域諸国では漢の支援を求める機運が高まりました。

 しかし漢の光武帝は国内の不安定を理由に積極的な介入に出る事はありませんでした。敦煌太守裴遵はあたかも漢が新しく西域都護を派遣するかのように偽装工作を行いましたが効果はなく、賢は漢の介入の無いのを確信して、漢に近い鄯善国に対し漢との国境の交通路を封鎖するように命令しました。

 しかし中継貿易で国を成す鄯善国にとってこれは従える命令ではなく、鄯善王安は莎車国の使者を惨殺して命令を拒否しまた。これに対し賢は鄯善を攻撃して1000人あまりを虐殺したと伝えられていいます。鄯善国王安は南の山岳へと逃れ、重ねて漢の支援を要請しました。しかし光武帝が再び兵を送ることは出来ないという返信を送ったため、
鄯善は他のいくつかの諸国と共に匈奴との同盟を再開しました。



(楼蘭国)最大勢力範囲。 1世紀頃に形成され、途中変動しつつもこれに近い領域は
3世紀頃まで維持された。 
Source; Wikimedia Commons
TEN - コモンズにあるPDの衛星写真commons:file:Wfm tarim basin.jpgを元に『楼蘭王国史の研究』106ページ掲載の地図、『楼蘭王国』5ページ掲載の地図を参考として自作した歴史地図。, パブリック・ドメイン, リンクによる

 西暦61年に莎車王賢が于闐国(現在のホータン市、和田市)との争いの中で暗殺されると、西域の政治情勢は一変しました。莎車国の支配下にあった諸国は殆どが独立して相互に争いましたが、鄯善国はこの争いの中で数ヶ国を併合して西域の一角に勢力を築くことに成功しました。

 同じ時期に于闐国((現在のホータン市),車師国(現在のトルファン市),亀茲国(現在のクチャ県),焉耆国(現在の焉耆回族自治県)などが割拠し繁栄しました。当時鄯善国で作成された漢文文書には、昔ながらの名前である楼蘭が使用されていることが確認されています。

後漢の西域経営

 勢力を拡大した鄯善国は地図にあるようにロプノール湖畔から西は精絶国(チャドータ)まで、西域南道沿いの領域を東西900km余りに渡って支配するまでになり、1世紀末頃から全盛期を迎えました。交易も活発になり、発見された遺物はこの時期の経済的繁栄を明らかにしています。この鄯善国の繁栄は長く3世紀まで続くことになりますが、必ずしも順風満帆の時代であったわけではありませんでした。

 その国力の増大によって政治的地位は上昇しましたが、漢や匈奴に比して弱小であることには代わりはなかったわけです。やがて漢の介入が本格化すると、鄯善国はその覇権を認めざるをえなくなりました。
 
 光武帝の跡を継いだ明帝(57年-75年)の時代になると、再び漢が西域に本格的に介入するようになりました。西暦73年に漢は匈奴への攻勢に打って出たほか、ほぼ同じ時期に西域にも出兵して車師国が制圧されました。西方の見聞を残した甘英を派遣したことで名高い班超が活躍したのもこの時期であり、彼に纏わる逸話は鄯善国(楼蘭)がなおも複雑な立場に置かれていたことと、その立場の弱さを示します。

 『後漢書』班超伝によれば、73年に班超が36人の部下とともに鄯善国に派遣された際、鄯善王の広は当初班超を丁重にもてなしました。しかし匈奴の使者が鄯善国に訪れると、広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れて班超の待遇を落としました。

 匈奴使のために待遇が悪化したのを聞いた班超は憤激し、ある日の夜、密かに匈奴使の帳幕(ゲル)を焼き討ちしてその使者33人と家来100人余りを虐殺しました。この時の彼の言葉として知られているのが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」です。

 翌朝匈奴使の首を突きつけられた広は驚愕し、ひたすら漢に対する忠誠を約束して許しを請うことになりました。この結果、鄯善国は再び漢に王子を人質として出すことになりました。更に班超は西域諸国の大半を支配下にいれ、この功績によって西域都護に任じられて31年余りにわたって西域経営に従事しました。鄯善国はその覇権下で王統をつなぎましだ。後漢の西域経営は班超の死後若干の断絶の後、123年には班超の息子班勇によって継続されました。班超にしても班勇にしても、投入した兵力は少なく、時折の本国からの援軍を除けば西域諸国の兵を用いて軍事活動に充てていました。

 この時期以降、鄯善国は後漢の従属下にあって主だった反抗や事件も少なかったらしく、中国側の記録にはあまり登場しなくなります。

カローシュティー文字の時代

 2世紀前半以降、楼蘭(鄯善国)に関する記録が乏しい時代が続きますく。上述のようにこの時代の鄯善国は後漢の影響下にあって経済的には繁栄しました。2世紀後半に入ると、後漢末の動乱(いわゆる三国時代)のため、西域への中華王朝の影響力は低下しました。

 このため漢籍に鄯善国の情報が求められなくなりますが、3世紀前半に入ると鄯善国自身が記した文書史料が豊富に出土するようになります。これらはプラークリット語の一種であるガンダーラ語をカローシュティー文字で記したものです。こういった文書の様式や、その中に登場する王号がクシャーナ朝のそれに類似することなどから、鄯善国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もあります。

 実態は全く不明ですが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察されます。このカローシュティー文字文書の解析から、この時期の鄯善国がロプノール周辺から精絶国に至る領域を維持していたことが知られています。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されてます。

 ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、3世紀の鄯善国の政治史はあまりわかっていません。わずかに知りうるのは、当時鄯善国は、西隣の于闐(ホータン、当時の文書ではコータンナ)と国境を巡って争っていつつ緊密な関係を持っていたことと、チベット系である羌の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどです。一方でこういった実用文書類から、鄯善国の国政や社会についての知見は、この時代に関する物が多くを占めています。

中国王朝の時代区分

出典:中国歴史地図庫


鄯善国の滅亡

 やがて、三国時代の動乱も終結し、晋が中国を統一した3世紀後半には晋が漢と同じように西域へ影響力を拡大したと見られ、楼蘭で出土した漢文文書の中には晋代の物と見られる兵士への食糧支給記録や戸籍の断片が発見されています。

 晋は間もなく華北の支配権を失い、いわゆる五胡十六国時代が到来しました。この時代に涼州の支配者となった前涼は西域への勢力拡大を図りました。335年、前涼の将軍楊宣の攻撃を受けた鄯善国は、亀茲国などと共に前涼に入朝し、時の鄯善国王元孟は女を献じたといいます。前涼は西域長史を置いてこの地方への統制を強めました]。以後、
鄯善国は恒常的に河西の支配者に入朝を続けました。

 前涼は前秦によって滅ぼされましたが、鄯善国王休密?は自ら西域都護の設置を求めて382年に前秦に入朝しました。休密?の次の王、胡員?は前秦と後秦の戦いにおいて前秦に援軍を送っています。422年には鄯善国比竜が北涼に入朝しました。

 しかし北涼は後に鄯善国の敵となった。『宋書』によれば439年に北魏の北涼侵攻が始まると北涼は敗北し、その支配者沮渠無諱や沮渠安周は敦煌を経由して高昌へ後退しようとしました。この結果、その途上の重要拠点である鄯善国(楼蘭)を制圧しようと目論み、441年に安周が鄯善国を攻撃しました。楼蘭は最初の攻撃を撃退したが、翌年には沮渠無諱も数万の軍勢を持って鄯善国に殺到し、敗北を悟った鄯善国王比竜は4000家余りとともに且末(チェルチェン)へと逃れました。『魏書』「西域伝」によればこれは楼蘭の人口の約半数に上る数であったといいます。

 本国には公子(恐らく真達)が残り、北涼の下で一応王号を称しましたが、北涼の鄯善国領によって交易路が封鎖されるのを恐れた北魏は将軍万度帰の指揮の下で445年に鄯善国を占領し、鄯善国王真達は連れ去られました。そして448年に交趾公韓牧が鄯善国王に封じられました。その統治は郡県に対するそれと変わらなかったと伝えられています。こうして独立王国としての鄯善国(楼蘭)の歴史は完全に終了しました。

 楼蘭の都市は7世紀頃までは存続していたといわれていますが、もはや往時のように複数の西域諸国を統治下に置くようなことはありえなかったと言えます。


楼蘭3つづく