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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆秦(中国)

 秦( Qin、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝です。

 周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一しましたが、紀元前206年に滅亡しました。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦朝、秦代と呼んでいます。統一時の首都は咸陽です。


出典:中国歴史地図庫

歴史

統一王朝

蓁の統一戦争による領土の拡大

蓁の統一戦争による領土の拡大
Sourece:Wikimedia Commons
By Benedetta blair - Own work, CC BY-SA 4.0, Link



出典:Wikipedia

始皇帝


秦の始皇帝  
Source:Wikimedia Commons
不明 - Yuan, Zhongyi. China's terracotta army and the First Emperor's mausoleum: the art and culture of Qin Shihuang's underground palace. Paramus, New Jersey: Homa & Sekey Books, 2010. ISBN 978-1-931907-68-2 (p.140), パブリック・ドメイン, リンクによる


 紀元前247年に政が13歳で即位しますが、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていました。

 紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕の五カ国連合軍が攻めてきましたが、函谷関の戦いで撃退しました。紀元前238年に呂不韋が失脚して政が実権を掌握しました。

 やがて韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服しました。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献し、紀元前230年に韓を、紀元前225年に魏を滅ぼしました。

 紀元前223年に秦の将軍王翦が楚を滅亡させ、紀元前222年に趙と燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一しました。

 政は自ら皇帝を名乗りました(皇帝を称する始まりなので、始皇帝といいます)

 この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われていますが、史記始皇本紀に拠ると、大臣、博士たちが「古に天皇(テンコウ、日本のテンノウとは別)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう。」と言いましたが、始皇は「泰皇の泰を去り、古(夏、殷)の帝王が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう。」としたものと有ります。

 始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行いました。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行いました。

 注) 阿房宮

 万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていました。なお焚書坑儒などの思想政策も断行しましたが、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまいます。

 匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退しました。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げました。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれました。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもあります。

秦朝の行政区分

 秦朝は全国を36郡に分けました。中央政府に支配する、領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置きました。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海、桂林及び象州の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置きました。

 また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいます。しかし人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまいます。

秦末の反乱

 巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官趙高で、長子の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布きました。

 始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となりました。 二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破しました。しかし項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となります。投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまったのです。

 その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高でしたが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き狼狽します。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺されました。

 その後、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡しました。劉邦から生命を保証された子嬰でえしたが、後から咸陽にやってきた項羽によって一族もろとも殺害されてしまいます。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となったのです。

経済

 始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行いました。

 ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようです。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後のようです。


秦・文化へつづく