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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

 春秋 (歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

春秋 歴史


出典:中国歴史地図庫


春秋時代の諸国
玖巧仔 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Source:Wikipedia


 中国の春秋戦国時代は、古代中国における周王朝の後半期に区分される時代であり、紀元前770年に周が東西に分裂してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの、およそ550年に渡る期間を指します。

 参照 五丈原諸葛亮博物館

 周王朝が、鎬京(こうけい)を都としていた紀元前771年以前を西周と呼び、洛邑(らくゆう)が都になった紀元前770年以後を東周と呼ぶ事から、東周時代とも別称されます。もっぱら春秋戦国とひと括りにされますが、紀元前5世紀を境目にした前半期を春秋時代とし、後半期を戦国時代として別々に扱われる事も多いのです。

 なお、春秋の呼称は周代に成立した儒家経典の「春秋」に由来しており、戦国の呼称は前漢期に編纂された歴史書「戦国策」から取られています。

 春秋時代は全期間を通して群雄割拠の戦乱の時代であり、周王朝下の秩序が失われた事で互いに争うようになった各地の諸侯が500年以上に渡って興亡を繰り広げました。春秋時代には大小合わせて200以上の諸侯領が存在し、周王の名代として全諸侯を従える覇者の座を巡って大国が競い合い、小国は滅ぼさずに従属させるのが慣わしでしたが、戦国時代が近付くと周王朝の権威も形骸化した事で諸侯たちは独自の権力の確立を望むようになり、小国は積極的に滅ぼされて吸収されるようになりました。

 200の国々は弱肉強食の構図の中で7つの大国に収束され、最終的には秦によって統一されます。また、この時代は諸子百家と称される優れた思想家を輩出しました。


春秋時代の勢力図
EfreedomE - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikipedia


戦国時代の勢力図
Philg88 - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる
Source:Wikipedia

春秋時代

周王朝の凋落(紀元前771年)

 前1046年頃に開かれた周王朝は、前900年を過ぎる頃から衰退の兆候を見せ、前771年には現在の湖北省にあった諸侯国「申」が反乱を起こし、王都鎬京を攻め落とした後に周の幽王を殺害したので、一時滅亡する事になりました。

 前770年に申侯は、幽王の子であり自身の孫でもある平王を即位させて洛邑に遷都させますが(東周)、鎬京に残っていた別の周王朝一派が幽王の弟である携王を擁立した為(西周)、周王朝は東西に分裂する事になりました。

 この東西の抗争は20年続き、前750年に東周が西周を下して王権を一本化するも、直接の領土は洛邑周辺に限られる状態となって往年の勢力はほぼ失われていました。周の内乱を引き起こした「申」は東西抗争の中で急速に力を失って長江流域の諸侯国「楚」に併呑されていました。周王朝の勢力喪失に伴い各地の諸侯は独立状態となりましたが、その権威は依然重視されており、周王の名代として諸国を束ねる「覇者」の座に就く事が諸侯たちの目標となりました。

時代背景

 春秋時代は、当時の先進開発地域である中原(現在の河南省一帯)から遠く離れたそれぞれの僻地の後進開発の時代でありました。広大な未開地を持つ辺境諸侯の下に優れた人材が集まると、その土地の開発が進んで生産力が上がり、人口とそれに伴う兵力も増えて他の諸侯を圧倒しました。

 しかし、優れた開発の担い手がいなくなると急増した人口との不均衡から生じる政情不安によってすぐ衰退し、遅れて発展して来た他の諸侯に取って代わられました。人材の利を得たそれぞれの未開地は順々に開発されて、最も発展した土地の諸侯である「覇者」の所在も次々と移り変わりました。

 この時代は異民族の侵入が多く、主にオルドス地方と遼河方面から黄河中下流域を目指して襲来する遊牧民または半牧半農の民族を、中原の住民たちは夷狄(いてき)と呼んで大きな脅威と見なしていました。夷狄は移動中の邑々で略奪を繰り返し、またその地を奪って独自の生活拠点とする事もありました。諸侯の盟主である「覇者」は率先して夷狄の侵入に対抗する義務を負いました。

主な国々

 大国: 晋(山西省)、斉(山東省)、秦(陝西省)、楚(湖北省+湖南省)
 中国: 宋(中原)、鄭(中原)、衛(中原)、魯(山東省西部)、燕(河北省)、呉(江蘇省)、越(浙江省)
 小国: 曹(中原)、陳(中原)、蔡(中原)

諸子百家

百家の分類


 春秋戦国時代は優れた学者と思想家が数多く登場した時代としても知られています。当時の学問は師の下に弟子たちが集まる形で研鑽ないし伝承され、この師匠と門弟からなる学士集団は「家」と呼ばれました。

 「家」はより広い意味をも含み、同じ師のルーツを持つ一門を指す場合にも用いられました。互いに共通する思想ないし教義の相関性を持つ「家」の集合体は「流」とされ、これは学派と同義の言葉となりました。「流」の開祖的存在であり、また特に後世への影響を残した師は「子」と称えられました。孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子、韓非子といった偉大な思想家の輩出は諸子と呼ばれ、多種多様な学士集団の賑わいは百家と成句されました。

 後漢期の歴史家班固はこの百家を九流十家に分類しました。道家・儒家・法家・墨家・名家・陰陽家・縦横家・農家・雑家は九流と呼ばれ、これに小説家を加えたものは十家と称されています。小説家は世間の故事伝承を伝える言わば報道書簡の寄せ集めだったので「流」とは見なされなかったのです。

 更に兵家と方技家(中国語版)の二つが加えられて、春秋戦国時代の学者ないし思想家たちはこの十二学派に分類されるのが通例となっています。

 ・道家  - 自然哲学の一種。人の在り方を説いた。後に道教の基盤となった。
 ・儒家  - 社会哲学の一種。儀礼と礼節の必要性を説き上下の身分秩序と徳による統治を旨とした。
 ・法家  - 政治哲学の一種。法律による政治支配と社会統制を重視した。
 ・墨家  - 社会哲学の一種。平等・博愛・団結・勤労の重要性を説きマルクス主義との親和性が高い。
 ・名家  - 弁論に活かす為の論理学の一種。
 ・陰陽家 - 森羅万象を解析する為の東洋版元素論を軸にした自然哲学の一種。
 ・縦横家 - 外交戦略に活かす為の弁論術および論理学の一種。
 ・農家  - 農学に近い学問。
 ・雑家  - 様々な分野の知識を集めた百科事典的学問。
 ・小説家 - 世間の出来事や伝承を著述した報道的分野。
 ・兵家  - 兵法として知られる軍事学の一種。
 ・方技家(中国語版) - 当時の医術と化学および仙人の知識などを扱った錬金術的学問。

百家の推移

 春秋時代初期には「道」の思想家と「法」の理論家たちがすでに存在していました。自然哲学(natural philosophy)の一種である「道」は人間文化の誕生と共に自然発生し、政治哲学(political philosophy)の一種である「法」は国家の成立と共に誕生しました。

 国家と軍隊は表裏一体であったので軍を動かし律する為の「兵」も同時に編み出されていました。春秋時代中期に王侯士大夫の身分秩序の乱れが顕著になると、その回復と社会の安定を願って社会哲学(social philosophy)の一種である「儒」の教えが生まれました。「儒」は「法」と反目する部分が多かったのです。

 戦国時代に入ると「儒」と反目する部分が多くマルクス主義との親和性が高い社会哲学の一種である「墨」の思想が広まりました。また「道」をベースにして森羅万象を解析する為の元素論(elemental theory)を取り入れた「陰陽」の思想体系が形成されました。

 思想家たちの交流と活動が盛んになるにつれて相手を説得ないし論破する為の弁論(rhetoric)が磨かれる事になり、理屈を組み立てる為の論理学(logic)の一種である「名」が誕生しました。更に「名」の技術を外交戦略(diplomatic strategy)に応用した「縦横」の一派が登場しました。

 実学の探求も進められ、現代の農学(agriculture)に近い「農」と、様々な分野の雑学知識(trivia)を収集した「雑」の関連書物が数多く編纂されました。「雑」には動物植物鉱物天文などを扱う博物学(natural history)的要素も含まれていた。「道」と「陰陽」をベースにした錬金術(alchemy)的学問である「方技(中国語版)」も体系化されました。「方技(中国語版)」はいわゆる仙人に関係した知識群でありましたが、当時における医学と化学も専門にしました。世間の出来事や伝承を記した書物も数多く存在し、当時の報道媒体(report)とも言えるこれらの著述家たちは「小説」と分類されました。

 彼らの文化活動は戦国時代中期に隆盛を迎えました。紀元前350年頃に斉の首都臨?に大規模な学問所が開設され、そこに集まった稷下の学士と称される思想家たちが日々自説を競い合い学問文化を発展させた故事は百家争鳴の成句として知られています。


春秋・文化財へつづく