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法門寺 百度百科3

(宝鶏市、陝西省)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月、更新:2020年4月1日
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陝西省宝鶏市 法門寺詳細中国百度百科)
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 これは中国陝西省宝鶏市にある法門寺の詳細解説(出典・百度百科3)です。

◆法門寺(百度百科3)

  

 随王朝文帝時代の開皇3年(紀元583年)、寺は「成実道場」と改名し、舎利塔は「成実道場合利塔」と呼ばれるようになりました。仁寿2年(602年)に右内史の李敏は、二回にわたり塔を開けて礼参しました。随王朝義寧2年(618年)、「成実道場」を「法門寺」に改め、塔の名前も「法門寺舎利塔」としました。この年、法門寺は不幸な火災に遭遇し、火災の後には、塔の基礎だけが残りました。

 注)内使(ないし) Wikipediaより
  内史(ないし)は古代中国の官職名。首都近辺の長官である。
  『漢書』百官公卿表上によれば周の官であり、秦、前漢もそれを引き継いだ。首都
  及び近辺の県を統治した。県を統治すると言う点では郡と同様だが、人口が多く、
  役所が首都にあり、前漢においては中央官庁の一つとして数えられた。官秩は二千
  石であった。(中略)更に武帝の太初元年(紀元前104年)に右内史の渭南郡だった地
  域は京兆尹と改名され、中地郡だった地域は右扶風となった。左内史は左馮翊と改
  名された。この元は内史であった京兆尹、右扶風、左馮翊およびその地域を三輔と言
  う。漢王朝の官としての内史はここで廃止された。

 唐の太宗皇帝の貞観5年(632年)、岐州の刺史(州の長官)張德亮が塔の基礎の上に、望雲殿を建設し、4層の建物をたてて塔の代わりとしましたが、唐の高宗時代の顕慶5年(660年)、仏の骨を東の都洛陽から迎え、供養し3年の後の龍朔2年(662年)法門寺の地下宮に戻し、恵恭和尚と意方に法門寺の塔を再建するよう命じました。

 唐の高宗はかつて寺院に対して5000貫のお金と絹5000匹を寄付し、皇族や大臣たちも競ってお金や絹を寄付しました。《法苑珠林》にはその寄付の盛況ぶりが記録されており、曰く;「現在、都の内外には、僧侶と俗人が二百里もの間、連なって往来が続いている」と書かれています。

 また、張撰の《無憂王寺真身塔銘》では、再度法門寺の塔の修復について、「一本の柱を抜いて戴天す」と其の様子を述べ、阿育王寺(アショカ寺)はまたの名を「無憂王寺」といい、塔の名を「無憂王寺真身宝塔」と言うことがわかります。唐の中宗皇帝時代の景龍4年(710年)、舎利塔は「大聖真身宝塔」、又の名を「護国真身宝塔」と改められました。

 注)『法苑珠林』(ほうおんじゅりん)
  唐代に道世が著した仏教典籍、類書。全100巻。668年(総章元年)成立。
  659年(顕慶4年)、唐道世は『経律異相』に依拠し『諸経要集』を編纂、その後更
  に『法苑珠林』を撰文している。引用する典籍は仏教のみならず儒家、道教、讖
  緯、雜著など400種を超え、また現在は散逸した『仏本行経』、『菩薩本行経』、
  『観仏三昧経』、『西域誌』、『中天竺行記』などを引用し、インドの歴史地理研究
  の上で重要な史料となっている。 内容は劫量篇より傳記篇までの全100篇668部
  となっており、文体は駢文が採用されている。

 後梁の末帝(朱友貞)の時代の龍徳二年(922年)、前の唐の節度使(中国の辺境の軍政を担当した官職)であった岐の皇帝、李茂貞(りもてい)が木造の塔の修復を行い、塔の中心に柱と框を設置し、塔の屋根は緑色のタイルで覆いました。朝の霧が空に満ちるとき、また、西に夕日が沈む頃、塔のてっぺんは金色に輝き、塔全体の姿は昂然とした様で、光輝き、岐山(きざん:中国陝西省の山)の太陽の中に立っています。

 注)岐(き)(901年 - 924年または946年)
 中国・五代十国時代に鳳翔を中心に現在の陝西・甘粛・四川の一部地域を支配した国。
 創建者は李茂貞(856年 - 924年、初名・宋文通)。ただし、いわゆる「十国」からは除外
 されている。

 当時の人物、薛昌序は「秦王再度法門寺塔廟修復記」の中で、「窮華極麗,盡妙罄能」(きわめて華やかで美しく、精緻で能力を使い果たしている)と述べ、長安城内の大雁塔や小雁塔の美しさに匹敵するものであると賞賛しました。李茂貞による修復の後、4層の木塔は明代後期まで維持されてきました。


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つづく