エントランスへはここをクリック   


真夏の群馬・栃木短訪

K吉田松陰も来ていた「足利学校」
青山貞一
掲載月日:2012年9月13日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁

 ◆特集:真夏の群馬・栃木短訪 2012.9.5〜9.8
@世界のクマ縫いぐるみ博物館  G奧草津の「チャツボミゴケ」公園
A鹿沢の「かえでの小径」  H庭山由紀・前桐生市議インタビュー 
B鹿沢の「たまだれの滝」  Iくだんの桐生市訪問
Cパノラマライン北コースと硫黄鉱山跡  J一度来たかった「足利学校」
D旧六合村の新名所「世立八滝」  K吉田松陰も来ていた「足利学校」
E群馬県企業庁の水力発電  L「足利学校」の希有な文物
F旧六合村の「冬住みの資料館」

吉田松陰にとっての孔子と論語

 足利学校内でもらった資料のなかに、過去この足利学校に来校している著名人リストがあった。
 
 そのなかに吉田松陰の名があった。おそらく萩から江戸に来たときあるいは東北を一周したときに立ち寄ったのだろうか?



 以前から吉田松陰の言葉のなかに孔子の論語に共通する言葉がたくさんあったが、おそらく松陰はこの足利学校でも、論語などを多く学び取ったのだろうか。



●吉田松蔭の格言・教え

   至誠而不動者未之有也
    至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
    (至誠をもって対すれば動かすことができないものはない) 

    


   至誠とは:この上なく誠実なこと。また、その心。まごころ。

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない) 
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
志を立ててもって万事の源となす
    (何事も志がなければならない。志を立てることが全ての源となる)
     志士は溝壑に在るを忘れず
    (志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて
     屍(しかばね)をさらしても構わないと常に覚悟しているものだ)

    己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る恐るるにたらず
    (自分に真の志があれば、無志(虫)は自ら引き下がるものだ)

    凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし 
    
 (人として生まれてきた以上、動物とは違わなければならない。
     人間は道徳を知り、行なわなければ人間とは言えない)
  

    体は私なり、心は公なり公を役にして私に殉う者を小人と為す
    (私を使役して、道を行なうことに心がける者が大人であり、
     反対に、私の欲望を満足させる事を目的とするものは小人である)


    人賢愚ありと雖も各々十二の才能なきはなし
    湊合して大成する時は必ず全備する所あらん
    (人には能力の違いはあるけれども、誰にも長所はあるものである。
     その長所を伸ばしていけば必ず立派な人になれるであろう)
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
    (死んでも志が残るものであれば、いつでも死ねばよい。
     生きて大事を為せるならば、いつまでも生きてそれをやればよい)
    ※「男児たるものどう生き、どう死ねばよいのか」という問いに対して。

   妄(みだり)に人の師となるべからず。また、妄に人を師とすべからず
   夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。
   君子は、何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、
   その上で行動する。小人は、何事に臨んでも、それが利益になるか
   否かと考えて、その上で行動する

   末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から、
   極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だと
   いわれるくらいでなければ、決して道義ではないのであって、
   すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。

   士たるものの貴ぶところは徳であって才ではなく、
   行動であって学識ではない

   人間の真価は 人生の最期で決まる自らの志を捨て去り
   晩節を汚すこと程人間として醜悪な敗残の姿はない。
   弟子たちよどうかわが志を押し広げ これを満天下に
   宣揚していってくれ
これ以上に私という人間をよく知る道は
   ないのだ
意気盛んならば天下に難事なし


   「知行合一」
    学者になってはいかぬ。
    人は実行が第一である。
    学んでも行動しなければ社会の役には立たず、
    学ばずに行動すれば社会に害をもたらす。

山口県萩にある松下村塾にて 青山貞一

●杏壇門と孔子廟

 下の3枚の写真は、遺跡図書館のすぐ南東にある杏壇門孔子廟である。

 杏壇門(きょうだんもん)は、寛文八年(1668年)の創建である。明治二十五年(1892年)に、町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、動燃三十年代に再建したもの。

 杏壇とは、孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられいたことに由来している。


孔子廟に通ずる杏壇門


孔子廟に通ずる杏壇門
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S8 2012-9-7

 下は孔子廟。寛文八年(1668年)徳川幕府四代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明朝時代の聖廟を模したものと伝えられている。

 確かに一見して中国明朝時代のお寺に似ていると思った。以前、長崎でも似たような建築物(お寺)を見たことがある。屋根の先がすこし跳ね上がっているところに特徴があるはずだ。


孔子廟
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

 ここで少々長文となるが、足利学校の歴史を紹介したい。

 まずは入場時にいただいたパンフレットより。

●足利学校の歴史(入場時頂いたパンフより)

 足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。

 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。

 足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。

 江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。

 以下は足利学校の歴史の詳細である。

●足利学校の歴史(詳細版、出典は主にWikipedia)

 足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっているが、足利学校は、室町時代の前期には衰退していた。

 1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。

 足利学校の教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。

 戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。

 学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。
 
 享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微した。

 しかし、第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。

 この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。

 ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。

 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されそうになったが、当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校を守り通した。

 江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。

 しかし江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。

 学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみであった。

 明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。

 廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に払い下げようとしたので、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還された。

 地元足利町は1903年(明治36年)、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存するとともに一般の図書を収集して公開した。また1921年(大正10年)、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。

 1980年代になり、小学校の移転、遺蹟図書館の一般図書の県立足利図書館への移管が行われ、史跡の保存整備事業が始められた。そして1990年(平成2年)に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現された。

●南庭園と北庭園



 足利学校には二つの庭園がある。南庭園と北庭園である。両者は方丈(今で言う教室)を挟んで敷地の南北にある。

 いずれも池と築山がらなる築山泉水式の日本庭園である。南庭園は鶴が羽ばたくように見える入り組んだ水際、北庭園は亀のように見える水際となっているのが特徴である。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

 南庭園は、書院庭園の形態を持つ築山泉水(つきやませんすい)庭園で、巨石と老松が特色である。


足利学校の南庭園
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

 下は、築山泉水(つきやませんすい)庭園。奥の庭として南庭園より格が高く、亀の形をした中之島を配し、そこには弁天を祀る石の祠(ほこら)がある。


足利学校の北庭園
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

●方丈と庫裡、書院

 方丈は、学校、大学で言えば講義や学習する教室。各種行事や接客のための座敷として使われた足利学校の中核的な存在である。方丈では自学自習が基本となっていたそうだ。


方丈
出典:Wikipedia


方丈から北庭園を望んだところ(完成八年にかかれた北庭園)
出典:Wikipedia

 下の写真は、書院である。庠主(しょうしゅ、学長)の書斎、庠主の接客や学生への個人指導が行われたところである。屋根は栗の板を重ねた柿葺きで、8畳2間の書院造りになっている。


書院
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

 庫裡(くり)は、足利学校の台所である。料理を作るだけでなく食べるなど日常生活が行われた場所でもある。


庫裡(くり、台所)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7


庫裡(くり)の竈(かまど)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7


庫裡(くり)の竈(かまど)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-9-7

つづく