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第二次三陸津波被災地 現地調査
F岩手県宮古市

青山貞一 東京都市大学大学院
池田こみち 環境総合研究所(東京都目黒区)
掲載月日:2011年11月22日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁

第二次岩手県・宮城県北部津波被災地現地調査(目次)
@調査の前提・概要   J岩手県大船渡市(再訪) 
A岩手県宮古市田老 K岩手県陸前高田市(再訪) 
B岩手県岩泉町 L宮城県気仙沼市(再訪) 
C岩手県田野畑村・普代村 M岩手県一関市「猊鼻渓」
D岩手県野田村・久慈市 N宮城県南三陸町
E岩手県北部リアス海岸 O宮城県石巻市大川小学校
F岩手県宮古市 P宮城県石巻市雄勝
G岩手県山田町 Q宮城県石巻市長面
H岩手県大槌町(再訪) Rまとめと提言  英文版
I岩手県釜石市(再訪) S補遺:宮沢賢治
◆参考:第一次岩手県南部・宮城県北部津波被災地現地調査
◆参考:宮城県・福島県北部被災地調査(速報)

●宮古市市街地の被災地(新規調査)













宮古市

←山田町
 11/18
  11/20

  






出典:マピオンをベースに作成


●岩手県宮古市
 
 以下はグーグルマップで見た宮古市市街地である。マウスを使用することで拡大、縮小、移動などが自由に行えるとともに、衛星画像、通常の地図、3次元立体地図、地形図などを切り替えてみることができる。
 


 以下は岩手県内で2泊した休暇村陸中宮古である。いわゆる昔の国民休暇宿泊所であり環境省が所管している。


浄土ヶ浜に近い宮古市崎山地区にある宿泊先の休暇村陸中宮古
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 休暇村がある一帯は陸中海岸国立公園となっている。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 休暇村の食堂からは美しい海と紅葉がみれる。


宿泊先の休暇村陸中宮古食堂からみた近くの海と紅葉
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 休暇村の駐車場には、被災地をパトロールする青森県警のパトカーなどが多数駐車していた。現地では、津々浦々パトロールカーが岩手県内被災地をパトロールしているのが目撃された。

 

休暇村陸中宮古の駐車場に駐車する青森県警のパトカー
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 2011年11月19日(土)午前、北部被災地に向かう前と、翌20日(日)の午前中、岩手県南部に向かう前に、宮古中心市街地と山田町を視察した

 以下は宿泊先の宮古市崎山地区から坂を下り、宮古市の中心市街地に入るところの動画である。東日本大震災では、この辺り一帯が津波をかぶり、浸水していたが、現在はかなり復旧していた。


宮古市の中心市街地の復旧、復興状況
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 上の動画に写されている宮古市中心市街地は、私たちが休暇村陸中宮古で購入した岩手日報社の「平成の三陸大津波」の表紙になっていた。この冊子はフルカラーで1000円、貴重な写真が数多く収録されている! さすが地元の新聞である。


岩手日報社の「平成の三陸大津波」の表紙


宮古市中心市街地(上の津波近く)の現状
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 下は浄土ヶ浜上から見た宮古市臨港部の鍬ヶ崎。宮古市でも最も被害が大きかった沿岸地域のひとつである。


浄土ヶ浜上から見た宮古市臨港部の鍬ヶ崎
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 下は動画による宮古港の背後にある住宅地の被災、復興状況である。



宮古港被災地の復興状況
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 以下は宮古港沿岸域の住宅被災地の現状。瓦礫は撤去されているが再建の見通しがついていないことが分かる。


宮古港沿岸域の住宅被災地の現状
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19


宮古港沿岸域の住宅被災地の現状
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19


宮古港堤防直下の被災状況
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

 以下は、津波によって壊滅した宮古市港町地区。陸に打ち揚げられたフェリー1隻と漁船2隻も見える。アメリカ合衆国海兵隊による3月20日の航空写真である。


津波によって壊滅した宮古市港町地区
出典:Wikipedia


宮古港の背後にある住宅地の被災、復興状況
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19

池田こみちロング・インタビュー in 休暇村 陸中宮古  

宮古市 鍬ヶ崎にて

 その女性は、新築2ヶ月の住宅をすっかり津波に流されて5ヶ月間避難所で生活し、今は仮設住宅で娘さんと愛犬2匹と暮らしている。犬たちは5ヶ月間知人に預け、やっと仮設に入って一緒に暮らすことができるようになったという。以下は彼女の体験談だ。

 3月11日、娘と二人で自宅にいた私は、二匹の愛犬をバスケットに入れてなんとか逃げ伸びることができた。しかし、その時ちょうど船に乗って九州方面で仕事をしていた夫とは連絡がとれず、大変心細い思いをした。

 夫はすぐに九州から陸路、苦労してようやく自宅に帰ってきてくれた。新築したばかりの家が流されたものの、家族がみんな元気だったことを喜び合って運命を受け入れることができた。今は、娘と二人、愛犬の小型犬2匹ともども今は仮設住宅で元気に暮らしている。

 鍬ヶ崎の津波の勢いはすごくて、多くの人が目の前で流されていった。お年寄りも、高校生も。私は体も小さくて自分が逃げるのに精いっぱいだったが、息子は体格がよく柔道で黒帯の力持ちなので、当日は津波に流されそうになっている高齢者を何人も助け出すことができた。

 寒い時期だったのでお年寄りはたくさん着込んでいて津波に洗われてびっしょり濡れるととても重たく、とうてい普通の人の力では助けることもできないほどだったが、お年寄りに声を掛けながら、金網に指をしっかり入れて、なんとか、引き潮が落ち着くまでがんばってもらい、ひとりひとりずぶ濡れのお年寄りを引き上げ、救助した。息子が地元の人たちを助けるのに役立ってほんとうに嬉しかった。

 しかし、娘は、津波を間近に経験しその凄まじい破壊力を目撃したために、海が怖くて流された自宅の跡にも行けない状態が続いている。トラウマのようになってしまったようだ。避難所暮らしの夏の間は、ガソリンも車も何もないので、歩きか自転車で炎天下を毎日のように買い物や自宅跡の草取りなどに通い、すっかり日に焼けてしまった。幸いからだが丈夫なので、なんとかなったが、高齢者や病気がちの人たちは避難所から出ることもできずますます気分的にも体力的にもめいってしまったに違いない。

 鍬ヶ崎地区は、900世帯余りの住宅があったが、そのうち800世帯が被災している。阪神大震災の時の経験から、高齢者の孤独死をなくすため、集落ごとに仮設住宅に入ることができたので、みんなで助け合って生活している。寒くなってきたので仮設の窓は結露がはげしく、毎朝ふき取るのが結構大変な作業だ。

中には3400万円もかけて新築し、引っ越しの日に被災した人もいる。幸い、私は、借金がなかったのでなんとかもう一度家を建てようと漁業関係の仕事をしている夫と励まし合っているが、中には若い世帯で高額のローンを抱えている人も多く、先が見えない毎日だという。

 自分は、子どもたちもみな成人しているし、夫婦とも元気で働けるので何とかがんばれるが、家を失い借金を抱えて、高齢者や障害者の面倒をみながら、子どもたちの教育にお金がかかる家族の負担はどれほどかと思うと気の毒でならない。

 福島県の人はこの上に原発事故で放射能汚染が加わり、本当に大変だと思うが、原発を受け入れたのだから、事故もあり得るという覚悟は必要だったのではないかと思う。今では東電や政府を非難してばかりいるようだが、自分たちで責任をとるという態度も必要なのではと思う。放射能汚染で魚が食べられないという人が多いようだが、この辺では、別の意味で魚が食べられない事態となっている。

 地元の人しか知らないことだが、大型の魚が人の指を飲み込んでいて魚を捌いたら出てきたとか、タコが流された赤ん坊を抱えたまま引き揚げられたりという話を地元の漁師さんからよく聞く。ウニも海底では掃除やの役割を果たしているとか。そうした話を聞いたり見たりすると、地元でとれた魚はなかなか食べられず、つい缶詰や加工品ばかりを食べるようになってしまう。まだまだ多くのひとが行方不明となっているので、海に流された人も多いのではと思うと「三陸の海の幸」も素直に喜べない気がする。

 まだまだ復旧、復興までには時間がかかり、町も荒れた状況なのに、東京などから東北に来てくれるお客さんはほんとうにありがたい。地元の今の実態を多くの人に知ってもらえると嬉しい。

 宮古市中心市街地に閉伊川という大きな川が流れている。その閉伊川に流れ込む小さな山口川という川がある。その河畔にある山口町には、「一本柳の跡」という石碑(以下の写真参照)がある。


海岸から約5Kmの岩手県宮古市山口にある石碑

 その石碑には、「古い伝えによれば、この場所に柳の大木があり、一本柳とよんだ。江戸時代(年代不詳)三陸沿岸を襲ったヨダ(津波)は宮古にも大被害を与えた。津波により山口川を逆流せる波に乗って北ダンベ(船)を一本柳に繋留したと伝えられている」とある。

 江戸時代の年代不詳の津波は、推定で慶長(1611年)の三陸大地震津波(M8.1)と推定されている。慶長津波は、東日本大震災津波、明治三陸津波、昭和津波とともに、江戸時代以降現在まで、三陸海岸を襲った津波の4大津波のひとつと推定される。


 以下は、産経新聞に掲載された宮古市における津波の教訓《高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな》に関する碑の話である。

◆集落守った石碑、流されたプレート…明暗分けた津波の“教訓” 
2011.4.3 19:45 産経新聞

 過去に幾度もの津波被害を経験した三陸地方。東日本大震災では、先人から受け継いだ“教訓”を守ってきたことで集落ごと被害を免れた地域がある。一方で過去の経験が豊富であるがゆえに、津波から逃げ遅れたケースもあった。

 《高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな》

 津波で壊滅的被害を受けた岩手県宮古市。重茂(おもえ)半島にある姉吉(あねよし)地区には、海抜約60メートルの小高い場所に、こう刻まれた石碑が立つ。明治29年の明治三陸地震と昭和8年の昭和三陸地震で、同地区は津波の激しい被害にあった。昭和三陸地震では、海抜約40メートル近くまで押し寄せた大津波により、地区の生存者はわずか4人を数えるのみだった。

 住民によると、その生存者たちが、津波到達地点より、さらに20メートル高い場所に石碑を建立。以降、石碑より低い位置に家屋が建てられることはなかった。

 現在12世帯約40人が暮らす姉吉地区。今回、津波は石碑の約50メートル手前で止まり、石碑より高い場所に避難した住民は全員無事だった。「わが家も昭和の大津波で流され、石碑よりも高台にある現在の場所に建て直した」と漁師の川端隆さん(70)は話す。

<50年代の道路の拡幅工事で撤去の必要に迫られたが、数メートル高い位置に移され、石碑そのものは残った。「言い伝えを守ってきてよかった」と川端さんは安堵(あんど)の表情を浮かべた。

 一方、昭和35年のチリ沖地震の際、街中まで津波が押し寄せた宮城県南三陸町。町内には津波到達地点を示したプレートが何カ所にも設置された。だが、今回の津波は、プレート付近を軽々と越えてきた。

 東北福祉大3年の渡辺唯さん(20)が参考としていたのは「チリ地震津波水位」と示したプレート。「チリ(沖地震)のときも大丈夫だったといわれてきた。だから、みんな逃げなかったんだと思う」。しかし、プレートは流され、今も行方不明の同級生がいる。町では「安心感から逃げ遅れた人も多かったのではないか」とみている。(中村翔樹)



◆「明和大津波碑」市文化財指定へ
2011/04/16 宮古新報

 東北・関東地方に大きな被害を与えた東日本大震災は、 1771年3月10日に発生した地震により宮古島などを直撃した 「明和の大津波」 に目を向けさせている。 地震規模はマグネチュード7・4で、 約2500人が亡くなったと言われる。

 遺体が漂った下地の与那覇前山には 「明和大津波碑」 があり、 当時の大災害を伺い知ることができる。 この碑にはヒビ割れが入っていることや地震対策、 教訓の観点からも優先して宮古島市の指定文化財 (史跡) にするべきだという声が挙がる。 市文化財保護審議会は今年度中に指定する方針だ。




 旧下地町史などによると、 明和の大津波を引き起こした地震の震源地は東経124・3度、 北緯24度で宮古島から南西方向に当たるとある。 南西の方から押し寄せた大津波は、 その前面に比較的リーフ (礁) が少なく、 海岸低地にあった宮国、 新里、 砂川、 友利の4村の集落を襲った。 また、 池間島の池間、 前里の2村、 伊良部島の仲地、 佐和田、 伊良部の3村、 多良間島の塩川、 仲筋の2村などが被害を受けた。

 宮国などの溺死者の遺体は、 地機と呼ばれた上布織機や家屋の破片などとともに与那覇の浜に漂ってきたことから与那覇前山には遺体をまとめて葬ったと言われる。 その場所に建てられている 「明和大津波碑」 は、 こんもり茂った木々の中にある。 石碑に刻んだ文字の 「宮國、 新里、 砂川」、 「三月十日大津波」 などは読むことはできるが、 それ以外は薄れており時代の流れを感じる。

 碑は半分ほどからヒビ割れが見られ、 このまま放置しておくと二つに割れることは時間の問題。 市教育委員会文化財係は、 ヒビ割れの修復は緊急性があると判断したほか、 大津波の教訓を生かすべきなどとの声や 「歴史的背景からも文化財指定の価値がある」 としている。

 東日本大震災後、 同係には明和の大津波に関して 「津波を掲載している資料がほしい」、 「宮古島と石垣島の地震の日付が違うが、 どういうことなのか」 などの問い合わせがあるという。 担当職員は 「日付が違うのは宮古島が旧暦、 石垣島は新暦で掲載している」 と説明した。

 同審議会の砂川玄正会長は 「大津波から200年が経過しており、 今後も起きる可能性がある。 災害は忘れた頃にやってくると言われるので、 大津波碑を市指定して公開することで各自、 各地域で津波対策を考えてほしい」 と話した。




●参考データ(岩手県宮古市鍬ヶ崎地区)

■宮古市鍬ヶ崎地区における死亡者及び行方不明者

市町村名 死者数A 行方不明者数B 死者+行方不明者数A+B=C
宮古市 420 124 544

■宮古市鍬ヶ崎地区における過去の津波被害

 上記の鍬ヶ崎地区では、 明治三陸津波(1896)で波高が8.42mの津波が押し寄せ
死者100人、流失倒壊戸数を250戸だし、昭和三陸津波(1933)では波高3.36mが押し寄せ死者を15人出している。

参考:内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』


青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 E過去の津波被害(詳細)

■津波の高さ(推定値)

 
今回現地調査した宮古市沿岸域は、堤防、道路、水門、住宅などの破壊状況、沿岸域の樹木、土壌、地層などへの影響から最低でもTPから12mの津波高、最高で30mを超す遡上高が生じていたと推定される。


出典:東京大学地震研究所 都司嘉宣氏らによる「三陸南部の調査結果」

 参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
     東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ 
     グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
     津波現地調査結果/岩手県 
     過去の津波情報



つづく