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第二次三陸津波被災地 現地調査

I岩手県釜石市(再訪)

青山貞一 東京都市大学大学院
池田こみち 環境総合研究所(東京都目黒区)
掲載月日:2011年12月3日
 独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

第二次岩手県・宮城県北部津波被災地現地調査(目次)
@調査の前提・概要   J岩手県大船渡市(再訪) 
A岩手県宮古市田老 K岩手県陸前高田市(再訪) 
B岩手県岩泉町 L宮城県気仙沼市(再訪) 
C岩手県田野畑村・普代村 M岩手県一関市「猊鼻渓」
D岩手県野田村・久慈市 N宮城県南三陸町
E岩手県北部リアス海岸 O宮城県石巻市大川小学校
F岩手県宮古市 P宮城県石巻市雄勝
G岩手県山田町 Q宮城県石巻市長面
H岩手県大槌町(再訪) Rまとめと提言について
I岩手県釜石市(再訪) S補遺:宮沢賢治
◆参考:第一次岩手県南部・宮城県北部津波被災地現地調査
◆参考:宮城県・福島県北部被災地調査(速報)

●岩手県釜石市被災地(再調査)





















←釜石市
 11/20
 

  



出典:マピオンをベースに作成


調査対象となった三陸海岸   作成:青山貞一

●岩手県釜石市被災地(再調査)

 2011年11月20日日曜日、私たちは前回の岩手県現地調査では瓦礫処理の作業中で現地への立ち入りが禁止されていた地域に入ることができた。

 下の動画は、大槌町から国道45号線で釜石市に入った鵜住居地区(うのすまい)である。第一次調査で詳細を報じたように、この地域は大槌湾から河川沿いに津波が遡上し、壊滅的な被害を受けている。

 今回、瓦礫が撤去されるなど復旧作業は第一次調査時より進んでいるものの、まちの復興は依然として進んでいなかった。



大槌町から国道45号線で釜石市に入った鵜住居地区
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


 下は、釜石市の鵜住居地区から同じく釜石市の両石地区に向かう途中で撮影した動画である。

国道45号線で釜石市の鵜住居地区から両石地区に
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


 さらに以下の動画は釜石市両石地区の津波被災状況である。

国道45号線沿いの釜石市両石地区
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.18

 釜石市の鵜住居地区近くの両石には、以下に示す三陸津波伝承施設〜両石津波記念碑〜がある。

◆三陸津波伝承施設〜両石津波記念碑〜



 釜石市両石町は、かつては岩手県初の捕鯨会社が建設された港であり、また橋野町から釜石に鉄鉱石を運ぶ港として重要な町であった。

 三陸のリアス式海岸の複雑な地形はすばらしい景観や良好な漁場を提供したが、明治29年、昭和8年の三陸大津波ではその地形により、多大な被害をもたらすこととなった。

 両石町の国道45号沿いに3基の石碑がある。この石碑のうち中央と右側の2基は、明治29年の津浪の記念碑で、中央は、南部盛岡藩最後の藩主南部利恭による書の碑である。

 右側は『両石海嘯記念碑』として津浪の悲惨さを漢文で記述している。この2基はもともとは、明治29年の津浪の波が押し寄せた場所で、現在の位置より100mほど北西にあったといわれている。

 左側の碑は昭和8年の碑で、当時の県知事石黒英彦の書による「大地震の後には津波が来る」と刻まれている。この石碑と同型のものは、釜石市内の沿岸部に何基かあり、被災地域に対して県が建立したものであろう。

 この碑も津浪の到達地点に置いてあったとされ、現在のJR山田線と国道45号の交差する付近にあったとされる。各地に点在してあった石碑を、現在の場所へ移設して、合祀したものである。

 津浪の恐ろしい体験を教訓とし、後世に語り継ぎ生かすものとして未来に残さなくてはならない資料である。


 以下はグーグルマップで見た釜石市である。釜石湾の右側(東側)に津波で破壊された湾口防波堤を見ることができる。

出典:http://www.gyokou.or.jp/100sen/100img/02tohoku/022.pdf



釜石市湾口防波堤

 釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら今回の津波で木っ端微塵に壊された湾口防波堤は、今まで私たちはグーグルアースでしかその破壊状況を確認できなかった。

 
 釜石市の市街の被災状況は、第一次調査で詳報しているが、第二次調査では調査初日の11月18日の午後に、釜石湾北部の新浜町から鷹の巣岬まで車で林道沿いに入った。

 以下は前回調査時に書いたブログである。

◆青山貞一・池田こみち:三陸海岸 津波被災地現地調査 J壊滅した釜石巨大堤防

 今回、初日の11月18日、遠野市から釜石市に車で入った私たちは、港に前回、打ちあげられていた大型船舶の現場を再度視察に行ったが、そのあと、たまたま東前町から新浜町に向かったが、途中、道路が行き止まりとなった。


 仕方なく一端市街地側に戻ったあと、湾沿いに半島の先端方面に車を進めたところ、湾口にあるスーパー堤防の破壊現場のすぐ近くまで接近することができ、撮影に成功した。

 ヘリやセスナ機を使うことなく、スーパー防潮堤が無残に壊れたスーパー防波堤の写真を撮影できた。以下はその写真と動画である。


釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら津波で粉々に
破壊されたスーパー防波堤
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.18

 下は動画で撮影した 釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら津波で粉々に破壊されたスーパー防波堤である。


釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら津波でコッパミジンに
破壊されたスーパー防波堤(防潮堤)

動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


 下は、釜石警察署近くの太平町から三脚を使って望遠で撮影した破壊された湾口防波堤(防潮堤)である。コナゴナに破壊されていることがよく分かる。


釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら津波でコッパミジンに
破壊されたスーパー防波堤(防潮堤)
 釜石市大平町から望遠で撮影
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下はさらにズームアップした破壊されたスーパー防波堤(防潮堤)現場。

釜石港湾口に1200億円を投入し建設しながら津波でコッパミジンに
破壊されたスーパー防波堤(防潮堤)
 釜石市大平町からさらに望遠で撮影
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20


参考:第一次調査時のブログ

 下の写真は破壊される前の防潮堤。



破壊されるまえの釜石大堤防
出典:国土交通省、釜石港湾事務所

 湾口防波堤は、最大水深63mの海底からケーソン工法により立ち上げたもので、2010年には「世界最大水深の防波堤(Deepest breakwater)」としてギネスブックによる世界記録として認定されていた。


無惨に破壊された釜石市湾口スーパー堤防
(写真中右の湾口部にある白い破線と線) 出典:Google Map

 しかし、2011年3月11日の東日本大震災に伴う津波によりケーソンが決壊、破損し、水面にとどまるのは上の写真でも分かるように、実に北堤でわずか2割、南堤でも半分という状況になった。


写真2 無惨に破壊された釜石市湾口スーパー堤防 出典:Google Map


写真3 無惨に破壊された釜石市湾口スーパー堤防 出典:Google Earth


 上記に関連し、帰宅した数日後、NHKが定時ニュースの中で、なぜスーパー防波堤が破壊したかについて水深60mに下ろした水中カメラ映像などをもとに解説していた。以下はその解説図である。

なぜスーパー防波堤が破壊したかについて水深60mに
下ろした水中カメラ映像などをもとに解説



出典:NHK 釜石市湾口防波堤 2011.11.24


出典:NHK 釜石市湾口防波堤 2011.11.24


出典:NHK 釜石市湾口防波堤 2011.11.24


出典:NHK 釜石市湾口防波堤 2011.11.24


出典:NHK 釜石市湾口防波堤 2011.11.24

 NHKのニュースでは、今年末にも修復工事を行うようなことを報じていたが、もとより1200億円もの税金を投入した巨大事業である。当該巨大防波堤を企画、設計、工事を指揮した当事者(国土交通省所管の港湾技術研究所)でなく第三者による事故原因究明調査を行ってから復旧工事を行うべきであると思う。また国会の衆参の予算委員会などでも質疑を行うべきであろう。

 NHKは研究所側から大水深で撮影が可能なビデオカメラを借用することでこの種のスクープ映像を撮影した見返りに上記のような年末から工事を行う旨の一方的な報道をしたが、巨額の税金を投入している以上、国土交通省側の言い分をそのまま報道したのは明らかに報道機関として間違いである。

  以上 青山貞一(東京都市大学大学院教授、公共政策論)


●地域で大きく進捗が異なる瓦礫処理

 8月に続いて3ヶ月ぶりの釜石市の視察となった。市内の主要交差点の信号は回復しどことなく活気が戻りつつあるように思えた。

 しかし、港湾施設や市役所を中心とする臨海部の商店街は依然として破壊された建物がそのまま残されていて、復興への道はまだまだ遠い。釜石港に面したエリアは平地が少ないため瓦礫の多くは、新日鉄の敷地内や平田埋め立て地などに運ばれている。

 平田埋め立て地には、新たに建設した広域ごみ焼却施設(ガス化溶融炉)があり、順次、可燃物の処理を行っているものと思われる。

 8月にはまだ瓦礫がそのまま積み上げられていたが、今は、上から遮水シートで覆い、整然と片付けられている。


釜石市平田地区の瓦礫保管場の様子
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下は釜石市平田地区の瓦礫保管場の動画である。

釜石市平田地区の瓦礫保管場の様子
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 釜石市内で被災した車両は現時点で公示されているだけでも1200台を上回っており、数百台ずつ3カ所の保管場所に集められている。

 市役所では保管している保管しているすべての被災車両について、保管番号・保管場所・メーカー・車種・色・ナンバーを一覧表として公示し、所有者と連絡が取れない車両及び所有者の特定が不可能な車両については、公示の日から2週間を経過した日に処分を決定し、処理を開始するとしている。

 被災車両の中には被災者のご遺体が取り残されていたり無残な状態のものも多かったと思われるが、1200台にも及ぶ車両のデータベース化だけでも膨大な作業だったことだろう。



釜石市臨海部地図  出典:マピオン


釜石市唐丹町の小白浜漁港(再調査)

 釜石市では唐丹町の小白浜漁港を対象に2度目の詳細調査を行った。ここでは12m超の防波堤を400mに渡り建設していたにもかかわらず、背後に居住していた多くの漁民が犠牲となっていた。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 以下はグーグルマップで見た釜石市唐丹村である。地図中、下側(南側)に唐丹小学校を見ることができる。




東日本大震災後の釜石市唐丹の小白浜  出典:Google Map

参考:第一次調査時の論考

 釜石市唐丹集落の小白浜堤防は中心部が倒れており、背後地に津波が入り低地は壊滅状態になっていた。他方、高所にある住宅はまったく被害を受けていなかった。

 この堤防は下の写真のように防波堤の内部が通路となっていた。そこで私たちは防波堤の上ではなく、防波堤の中を車で通ってみた。


釜石市唐丹町小白浜漁港の防波堤内道路入口 撮影:青山貞一 2011.8.24

 かなり行ったところで、防波堤が津波で破壊されており、防波堤から浜側に出ざるをえなくなった。



釜石市唐丹町小白浜漁港の防波堤 撮影:青山貞一 2011.8.24


防波堤内を走行する(釜石市小白浜にて)
動画撮影:青山貞一




12mの高さがある防波堤は中央部分がひっくり返っていた
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

青山貞一・池田こみち:三陸海岸 津波被災地現地調査 I津波の力

 明治三陸津波、昭和三陸津波を経験している釜石市唐丹。高台に移転した家屋、世帯はほぼ健在であったが、海浜に降り居住していた世帯は巨大な堤防があったにもかかわらず多くの犠牲者をだしてしまった。


高台に移転した世帯はほぼ被害を免れていたことがよく分かる
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.20

 下の動画は、小白浜の防波堤の上で撮影した破壊状況と高台に移転し助かった家屋である。



小白浜の防波堤の上で撮影した破壊状況
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.21

 唐丹では前回、相当詳しく調査していたが、今回は隣にある釜石市立唐丹小学校の被害状況とあわせ時間をかけ調査した。宮城県臨海部でも同じだが、なぜ小学校、中学校などの義務教育の学校施設が海浜や河口付近の海のすぐ隣につくられているのか、大いに疑問を感じた。

 唐丹小学校は、3.11の津波により3階建校舎が水没したが、幸い児童約70人は無事であった。2011年4月21日からは、ここから6km離れた平田小学校で1学期の授業を始めたという。



岩手県釜石市唐丹小学校の正門前の青山貞一
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.11.19

 下は津波に破壊された唐丹小学校の体育館。すぐ背後に低い防波堤があるのが分かる。


岩手県釜石市唐丹小学校の破壊された体育館
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.11.19


●参考データ(岩手県釜石市)


■釜石市の死者数と行方不明者数

市町村名 死者数A 行方不明者数B 死者+行方不明者数A+B=C
釜石市 881 299 1,180

 以下は岩手県釜石市における過去の津波被害である。

●釜石市

 同資料によれば、現在、釜石市が市町村合併する前の各町村では、明治三陸津波で8,181人な数の住民が亡くなっていることが分かる。

 
報告によれば、1896年に明治三陸津波が三陸海岸に押し寄せ、当時、旧釜石市では波高7.9mの津波により5,000人に及ぶ死者がでていることが分かった。また小白浜地区では、波高が14.6mもあり、小白浜地区を含む唐丹村では2,136人もの住民が亡くなっていることが分かった。


釜石市臨海部地図  出典:マピオン
 
★釜石(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:7.9m*  *7.9m(C1934)
死者:5000人(釜石市)
流失倒壊戸数:615戸(同上)
  波高:4.13m*  *9.30m(C1934)
死者:1人
家屋流失倒壊区域(坪):*  
  *34.56ha(C1934)
浸水家屋:1267戸
★大石(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:12.5m*  *12.5m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
波高:6.9m*  *6.90m(C1934)
浸水家屋:1戸
★荒川(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:13m*
 *13.0m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
波高:7.8m*   *7.80m(C1934)
死者:4人*   *7人(C1934)
流失倒壊戸数:*  *11戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):* 
  *0.33ha(C1934)
浸水家屋:10戸
★片岸(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
再生形態:分散移動
死者:5人*   *3人(C1934)
流失倒壊戸数:34戸*  *33戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):19000坪* 
  *6.54ha(C1934)
浸水家屋:31戸*   *1戸(C1934)
再生形態:集団移動
移動戸数:60戸
達成面積(坪):2762坪
★小白浜(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:14.6m*  *16.60m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
再生形態:集団移動
波高:9.6m*   *9.30m(C1934)
死者:4人
流失倒壊戸数:108戸
家屋流失倒壊区域(坪):12430坪* 
  *4.12ha(C1934)
浸水家屋:105戸
再生形態:集団移動
移動戸数:85戸
達成面積(坪):4168坪
★本郷(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:14.5m*  
 *14.50m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
再生形態:集団移動
波高:9.3m*   *9.30m(C1934)
死者:209人
流失倒壊戸数:101戸
家屋流失倒壊区域(坪):25500坪*
   *5.21ha(C1934)
浸水家屋:101戸
再生形態:集団移動
移動戸数:101戸
達成面積(坪):5637坪
★室浜(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:6.9m* *6.9m(C1934)
死者:1045人(鵜住居村)
流失倒壊戸数:227戸
 (鵜住居村)
再生形態:集団移動
波高:6.0m*   *6.0m(C1934)
死者:1人*   *1人(C1934)
流失倒壊戸数:*   *15戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):*  
 *0.42ha(C1934)
浸水家屋:29戸*   *14戸(C1934)
根浜(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
死者:1045人(鵜住居村)
流失倒壊戸数:227戸(同上)
流失倒壊戸数:*   *8戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):*  
  *0.18ha(C1934)
浸水家屋 :11戸*   *3戸(C1934)
花露辺(現在、釜石市)
明治三陸津波(1896)   昭和三陸津波(1933)
波高:13.8m*   *13.80m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
再生形態:分散移動
波高:8.3m*   *8.30m(C1934)
死者:4人*   *6人(C1934)
流失倒壊戸数:26戸*   
  *13戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):2000坪* 
  *0.66ha(C1934)
浸水家屋:18戸*   *3戸(C1934)
再生形態:集団移動
移動戸数:20戸
達成面積(坪):1425坪
参照・引用文献の出典:
 ・明治大学 建築史・建築論研究室著の「三陸海岸の集落 災害と再生」
 ・青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 過去の津波被害(詳細)

■釜石市鵜住居町における過去の津波被害

 釜石市鵜住居町では、明治三陸津波(1896)で波高6.7mの津波が押し寄せ死者1045人(鵜住居村) 、流失倒壊戸数が227戸(同上)に及んだ。 また昭和三陸津波(1933) では波高5.5mの津波が押し寄せ2名が死亡、流失倒壊戸数91戸となった。

 なお、「全村が29、8年と再度の津浪で殆ど流出したやうな、被害甚大な村にあっては、災害は悲惨を極めただけに、村人が協力して移動復興を遂げたのが多い。」また「144戸中被害を免れたものはただ2戸のみ、總人口の九割に近い殆んどが死亡したのであるが、高地に移らうと言ひ出した人もなく、當局の方でも特に移動に就いて注意もされなかったと言ふ。實は移動すべき適地もない程の谷底の灣頭に占拠した準漁村であったので、當局の補助金並びに義損金の一部を當ててバラックを建て、それが漸次木屋に改造されていって、何時か原位置に、略略災害以前の様な形の聚落が再興し、再び八年の災害に遭ったことになる。」という記録がある


■釜石市における過去の津波被害

 釜石市では、明治三陸津波(1896)で波高7.9mの津波が押し寄せ死者5000人(釜石市) 、流失倒壊戸数615戸の大災害が起きている。また昭和三陸津波(1933)では、波高4.13mの津波が押し寄せ死者1人、 浸水家屋1267戸の被害が起きている。

釜石市唐丹における過去の津波被害

 なお、釜石市唐丹の小白浜では明治三陸津波(1896)で波高が14.6mの大津波が押し寄せ死者2136人(唐丹村)、流失倒壊戸数が224戸の大惨事となっている。

参考:内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』

青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 E過去の津波被害(詳細)

■釜石市臨港部の津波の高さ(推定値)

 
今回現地調査した釜石市臨港部は、堤防、道路、水門、住宅などの破壊状況、沿岸域の樹木、土壌、地層などへの影響から最低でもTPから15mの津波高、最高で30mを超す遡上高が生じていたと推定される。

津波の高さ

出典:社会実情データ図録
   津波の遡上高

出典:社会実情データ図録

■釜石市唐丹における津波の高さ(推定値)

 
今回現地調査した釜石市唐丹の沿岸域は、堤防、道路、水門、住宅などの破壊状況、沿岸域の樹木、土壌、地層などへの影響から最低でもTPから10mの津波高、最高で30mを超す遡上高が生じていたと推定される。


出典:東京大学地震研究所 都司嘉宣氏らによる「三陸南部の調査結果」

津波の高さ


出典:社会実情データ図録


津波の遡上高


出典:社会実情データ図録

 参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
     東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ 
     グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
     津波現地調査結果/岩手県 
     過去の津波情報


つづく