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グアム島現地総合調査


参考・グアムの戦い3
日本vs米国・ Battle of Guam

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年1月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載

グアム島全体目次

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 参考・グアムの戦い地図

アサン海岸(朝井海岸)への上陸
 
 7月21日7時に、激しい艦砲射撃と空爆に支援された上陸部隊が海岸に向け殺到しました。

 第3海兵師団が上陸を目指したアデラップ岬とアサン岬に挟まれた全長2kmほどのアサン海岸には、独立混成第48旅団の第一大隊が守備を担当しており、上陸部隊が海岸に接近すると山砲と速射砲で砲撃を加えました、

 またフォンテヒル(日本軍呼称 本田台)に配備されていた第10連隊砲兵大隊も砲撃を開始し、LVT数十両を撃破しましたが、艦砲射撃と空爆による激しい集中砲火を浴び、次第に砲兵陣地は沈黙していきました。

 その後に上陸してきた米軍に対し、第48旅団の第一大隊は中村大隊長自ら手榴弾を手にして白兵戦を展開するものの、圧倒的な火力の米軍相手に死傷者が続出しました。

 また、中村大隊に配属されていた旅団の工兵隊も、隊長の三宅大尉自ら爆薬を抱いて戦車に体当たり攻撃をかけ、下士官は戦車に取り付いて、ハッチから手榴弾を投げ込もうとするなど、隊員全員が激しい肉弾攻撃を行い文字通り全滅しています。

 アサン海岸上陸作戦については日本軍の激しい抵抗に第三海兵師団もかなりの苦戦を強いられており、砂浜で多くの死傷者を出しています。

 上陸作戦で第3海兵水陸両用部隊は47両のLVTを日本軍の攻撃で撃破され、3両が機雷で撃破されています。また、上陸初日に米軍は1,047名の死傷者を出しましたが、その内102名はLVTの乗組員でした。

 第三海兵師団は、海岸線の日本軍抵抗を排除しながら内陸部に進みましたが、砂浜からわずか200m離れた、パラソル台、砲台山、チョニト断崖、日向台、駿河台といった多くの洞窟が存在する標高200m程度の小高い山地地帯で進撃が停止しました。日本軍はここに無数の後方縦深陣地を構築し、米軍を待ち構えていたのです。

 第18連隊第3大隊(行岡大隊長)は海岸線の戦闘で大半の戦力を失っていましたが、掌握していた一個中隊と重機関銃と迫撃砲で日向台上に布陣し、匍匐前進で進んできた米国兵に山上から集中射撃を加えています。日本軍からは真下に見下ろすような位置関係であったため、射撃は非常に正確であり、米国兵はまともに反撃もできずバタバタと斃され、多くの死傷者を放置したまま、艦砲射撃の支援を受けながら撤退していったのです。

 米軍は縦深陣地攻略に手間取り、日本軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続きました。日本軍も縦深陣地より出撃し、海兵隊に激しい夜襲を繰り返しました。

 21日から22日にかけ第48旅団の2個大隊と独立混成第10連隊の2個大隊が米軍橋頭堡に対し夜襲をしかけ、一部は米軍陣地を突破しましたが、米軍の強力な火力の前に死傷者が続出し、橋頭堡撃滅には至らないまま壊滅状態に陥っています。米軍の夜襲対策が強化されているため、防御の利を捨て敵陣に突撃する事はいたずらに損害を増やすだけの結果となりましたが、この教訓は後に島嶼防衛に活かされることとなりました。

 一方で日中は縦深陣地で防衛する立場となった日本軍は、パラソル台で師団直轄の歩兵第38連隊第9中隊(石井中隊長)が巧みな作戦指揮で21日以降に何度も米軍を撃退していました。

 石井中隊長は他の部隊のように陣地よりの出撃しないように部下に徹底し、米軍が目前に近付くと効果的で正確な射撃と手榴弾投擲を加えました。中隊30名戦死に対して、米軍300名以上の損害を与えていたのです。

 他に夜襲失敗で大損害を被っていた独立混成第10連隊の残存兵力も、パラソル台や本田台に陣取り、防衛戦と小規模な挺身斬り込みを行い、米軍をよく足止めました。この地域での米軍の損害も大きく、バンドシュー山(日本軍呼称 パラソル台)を攻撃していた米国第3海兵連隊は21日と22日の2日で615名を失い、連隊長が師団長に「手元に160名の戦力しか残っていない」と報告しています。


アガット湾(昭和湾)への上陸

 アガット湾には第1臨時海兵旅団の2個海兵連隊と砲兵隊が接近してきました。この地を守るのは第38連隊第1大隊の約1,000名でしたが、アサン湾での上陸作戦同様に、上陸支援の激しい艦砲射撃と空爆が加えられました。それでも第一大隊は海岸を目指してきた300隻の上陸用舟艇に山砲・速射砲で砲撃を集中し十数隻の上陸用舟艇を撃破したのです。

 しかし、沖合3,000mの至近距離に配置されていた戦艦2隻、巡洋艦3隻を主軸とする支援部隊が、砲撃した日本軍の砲兵陣地の場所を割り出し、正確な艦砲射撃を加えてきました。

 戦艦の巨弾に対し歩兵・野砲は無力であり、大隊の砲兵はたちまちの内に沈黙しました。その後に米軍は戦車の支援の下で上陸し、大原大隊長率いる第一中隊に攻撃をしかけてきましたが、大原大隊長は軍刀を片手に陣頭指揮するも戦死しました。その後大隊は壊滅状態に陥り、北方を守る第2大隊に残存兵力が合流しました。

 同日には、海岸線で第1大隊を壊滅させた米軍は、オロテ半島とアプラ方面を守備していた第2大隊にも迫り、第2大隊は一部で速射砲や山砲により米軍を撃退しましたが、損害甚大で夕刻までには主要な火器はほとんど破壊され、死傷率は80%にも達しました。

 大損害を被った第29師団第38連隊の連隊長末長大佐は、もはや防衛戦による上陸阻止は困難であると判断し、残存戦力による夜襲を決心しました。夜襲は第38連隊の残存兵力を結集して行なう事としましたが、(ただし第2大隊は連絡網が遮断され、連絡が取れなかった為不参加)但しこの夜襲は末長連隊長の独断作戦であり、直属の第29師団を初め上層部には何の相談もなされていなかったのです。

 連隊長は総攻撃決定後に第29師団司令部に連絡しましたが、高品師団長からは、残存戦力を速やかに結集の上で背後の天上山縦深陣地に撤退し持久戦行い、師団主力の支援を行うようにと攻撃を中止するように指示がありましたが、末長連隊長は「既に戦術も戦力もない。これ以上生きるのも無駄であろう、自分の希望を貫徹させてくれ」と師団長に懇願し翻意しなかったといいます。

 米軍は日本軍の夜襲対策として、これまでの経験則より夜は照明弾を絶え間なく打ち上げ、日本軍の夜襲が容易に接近できないような対策を講じていました。

 そのような状況下で強引に突撃した第38連隊は、米軍の集中砲火を浴び死傷者が続出しました。最大の攻撃は第3大隊による橋頭堡に対する攻撃で、日本軍は、戦車第9連隊の95式軽戦車5両を先頭に突撃してきました。

 M4中戦車やバズーカの集中砲火で戦車は全滅しましたが、第3大隊長長縄大尉は率先先頭に立って21時には第一線陣地を突破、22時には第二線の重火器陣地も撃破、その後4時には奥深くの米軍上陸点の船着場の陣地まで達しましたが、そこで大隊長・中隊長などが次々と斃れ、残存兵力は夜明けとともに撤退しました。

 また、一部の部隊は第4海兵連隊の防衛線を突破し砲兵陣地まで突入しました。その激しい戦いで米軍も死傷者が続出し、ある小隊は兵員が4名にまで減少しています。

 また、北方より上陸した第22海兵連隊方面でも小部隊による日本軍の夜襲が断続的に続けられ、米軍は69名の戦死者を出しましたが、日本軍遺棄死体は390名を数えています。

  末長連隊長は部隊先頭に立って攻撃部隊を指揮してきましたが、海軍砲台の小高い丘の上で銃撃を浴びて戦死しました。この夜襲失敗により第38連隊は壊滅し、第29師団は米軍上陸初日に主力が壊滅することになってしまったのです。

 連絡が取れずに総攻撃に参加しなかった第2大隊(奥城大隊長)はオロテ半島を根拠地として海軍部隊と須磨第一飛行場を防衛する事としていましたが、早速翌日の22日には米軍が戦車を伴って攻撃してきました。第2大隊は海軍部隊や野戦高射砲第52大隊と協力し、肉弾攻撃と対戦車地雷で戦車5両を撃破し100名死傷などの損害を与えてこれを撃退しました。
 
 この夜に第29師団の戦闘指令所は、艦砲射撃を避ける為に後方の的野高地に移動を開始しました。軍参謀長田村少将は、この2日間の戦いを顧みて島嶼防衛の戦訓を参謀次長宛に報告していますが、これが後に日本軍の島嶼防衛戦術改善に寄与することをなりました。

 また、第31軍司令小畑英良中将は自ら連合艦隊に「願わくば、この間の事情を諒察せられ成り行きにのみ委ねることなく何らかの有効適切な措置を講ぜられん事を敢えて具申す」と何らかの救援策を要請していますが、マリアナ沖海戦で大敗した連合艦隊に既にその力はなかったのです。


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