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   東マレーシア・サバ州現地予備調査

ボルネオ島と東インド会社
Borneo Is. and East India Company 

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年2月9日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
<全体目次>



 1月31日 成田→コタキナバル(東マレーシア・サバ州)
 2月 1日 〜 2月4日 現地予備調査
    1日 熱帯雨林自然保護区野生生物観察
    2日 ボルネオ島最北部クダッ現地視察 .........●
    3日 キナバル山麓、キナバルパーク現地視察
    4日 コタキナバル市内視察
 2月 5日 コタキナバル→成田


 ここで、ボルネオ島と東インド会社について触れておきます。

◆英領北ボルネオ会社

 19世紀の後半、クダッはじめボルネオ島北部は英国の北ボルネオ会社によって統治されていたことになります。これは英領東インド会社によるインドの統治と似ています。

 北ボルネオ会社に着目した歴史を以下に掲載します・

 1881年8月、暫定的に北ボルネオ会社設立します。設立当初は、北インドのシーク教徒を警官とするためにボルネオ島北部に連れてきて、さらに法律を制定しました。そして貿易を盛んにするため、政治システムや法、罰則などを整備します。

 さらにそれらの法を施行するための裁判所を導入し、ジェッセルトン(現在のコタキナバル)からテノム(Tenom)まで鉄道を敷き、農産物のバーター貿易を奨励します。同時にモノカルチャー的なプランテーションを押し進めます。

 1882年、英領北ボルネオ会社がガヤ島(Pulau Gaya)の居住区に創設され、1年後に本国よりサバ州統治の委任を受けることになります。

 1888年、英領北ボルネオは大英帝国の保護領(英保護国北ボルネオ)となります。

 1897年、サバの部族によってガヤ島居住区が襲撃され焼け落ち以後再建されることはありませんでした。

 1946年までボルネオ島内部の国内問題は、行政機構ではなく、英領北ボルネオ会社によって治められることになります。


イギリス北ボルネオ会社の詳細

以下の主な出典:
  http://www.geocities.jp/keropero2003/zatsu/company#01

 北ボルネオ会社(North Borneo Chartered Company)または英国北ボルネオ会社(British North Borneo Company)は、北ボルネオ(現在のサバ州)を統治するために、1881年8月に設立されたイギリスの勅許会社を意味します。


北ボルネオ会社の紋章



 北ボルネオとは、現在のマレーシアのサバ州を意味します。

 イギリスはボルネオ一帯では、他にもラブアン島、サラワク(いずれも現:マレーシア)、ブルネイの各植民地を領有していましたが、地域ごとに統治システムは異なっておりました。

 ラブアン島はシンガポールに政庁を置く海峡植民地の一部として直轄領とし、ブルネイはスルタンを通じた間接支配としました。またサラワクはイギリス人の「白人王」が率いる間接支配、そしてサバはイギリス北ボルネオ会社による会社経営の植民地だったのです。

 ボルネオ島には17世紀からオランダが、また18世紀にはイギリスが進出し領土や資源を争っていましたが、1842年の英蘭協定により北部をイギリスが、また南部をオランダが支配することで合意することになります。イギリスはまずラブアン島に拠点を築いて北ボルネオへの進出を本格化させたのです。

 1855年、アメリカがブルネイのスルタンからボルネオ島北端のアムボン、マルヅ一帯を租借し、米華商会を設立して、中国人労働者を導入しモノカルチャーのプランテーション農園を造成しようとしますが、米国本国からの経済的支援を受けられず、中国人労働者のほとんどが死亡するなどして撤退することとなります。

 1878年に英国人アルフレッド・デントが設立した北ボルネオ会社がそれを米国から引き継ぎ、1881年にブルネイやスールー諸島(現:フィリピン)のスルタンから北ボルネオの租借に成功します。こうして北ボルネオは、1888年にサラワク、ブルネイとともに正式なイギリスの保護領となりました。

 何と北ボルネオ会社はイギリス国王から外交を除いたあらゆる統治権が与えられ、閣議に相当する行政機構はロンドンの本社で開かれる重役会が担いました。

 現地には重役会が任命してイギリス植民地大臣が承認した総督(支配人)が派遣され、総督は行政機関を率いるほか、官吏9人と民間人5人(業界団体代表が選出し、重役会の承認を経て総督が任命)からなる立法評議会の補佐によって法律を制定したのです。

 下は英国政府の「勅許会社」としての北ボルネオ会社の役員の写真です。


Board of directors


W. C. Cowie, Managing Director with the Sultan of Sulu


英国の「東インド会社」本社(18世紀)

 また総督は大審院長を兼任して裁判所を率いましたが、裁判官の任命にも重役会の承認が必要だったそうです。

 ただ先住民同士の訴訟は、先住民の慣習に基づいた土人法令によって酋長裁判所が担当しました。北ボルネオ会社は警察と、巡憲隊という軍隊を擁し、国立銀行を設立して通貨を発行(シンガポールの海峡ドルと同価)したり、郵便局も経営していました。

 北ボルネオの主な輸出品は木材、天然ゴム、煙草、コプラで、東部のタワオでは日本人経営のゴム農園※や漁業基地が栄えていました。農園労働者や商人には中国人が多く、北ボルネオ会社は原住民と違ってよく働く中国人労働者を積極的に集めようと、中国からの移住者やその家族の呼び寄せには片道乗船券を無料で支給する制度も実施していたそうです。

※タワオで大ゴム園を経営していたのが久原農場で、後の日産コンツェルン。
 また明治から大正にかけては、日本から大勢の「からゆきさん」が北ボルネオ
 へ渡ってゆき、『サンダカン八番娼館』の舞台となっています。サンダカンは、
 当時の北ボルネオの首都です。

 北ボルネオ会社の収入は、輸出入関税に次いで多かったのがアヘン販売税で、他に土地貸付料、森林伐採料、鉄道経営収入(現:サバ州立鉄道)、郵便収入など。毎年大幅な黒字を計上してイギリス本国の株主に配当を出していた。

 その一方で、北ボルネオ会社は教育などにはほとんど予算を割かず、1937年当時北ボルネオの学校133校のうち、公立学校はたったの17校。残りは全て私立学校で、うち67校には補助金すら支給しなかったとのことです。

 中国人労働者を呼び込んでアヘンを吸わせ、儲けた金は教育なんかに使えるか、ということで、かなり露骨な植民地の搾取をやっていたことになります。

 同じイギリス保護領でも、「白人王」ブルック一族が統治する隣りのサラワクでは、イギリス本国からの内政介入を排して先住民との融和に気を使い、議会では先住民議員が多数を占め、外国資本による搾取から先住民を保護しようとしたのとは、対照的だったようです。

 太平洋戦争が勃発すると、北ボルネオはサラワク、ブルネイとともに日本軍に占領されました。戦時中に都市や農園は荒廃し、復興に多額の投資が必要となるため、1946年北ボルネオ会社は白人王とともに統治権をイギリス政府へ返上し、北ボルネオとサラワクはイギリスの直轄の植民地になりました。


大日本帝国の政治区画 

 その後1963年にマラヤ連邦と合併してマレーシア連邦になりましたが、歴史的な経緯から、サバ州とサラワク州はマレーシアの中で高度な自治権を持ち、現在でも入国審査は別々に行っておりて、マレー半島(たとえばクアラルンプール)とサバ(コタキナバル)、サラワクを行き来する際には、パスポートが必要になっています。

 上記の主な出典:
  http://www.geocities.jp/keropero2003/zatsu/company#01


つづく        <全体目次>