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バルト3国現地調査 ラトヴィア
リーガ歴史地区
1991年バリケード博物館

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

10 April 2010 無断転載禁
初出:独立系メディア「今日のコラム」

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自由記念碑、科学アカデミー 1991年バリケード記念館

●2010年2月19日(金) 1991年バリケード記念館




リーガ旧市街図
作成:青山貞一


 ラトヴィア占拠博物館を後に、私たちはリーガ大聖堂の南にある1991年のバリケードの記念館に向かった。


1991年のバリケードの記念館の位置

 1991年のバリケードは、ラトヴィア独立運動のさなか、リーガ市民などがソ連の内務省特殊部隊の攻撃を受け7名が死んだ事件だ。1991年1月20日に起きた事件の資料館が1991年のバリケード記念館である。

 下の写真は記念館が入っている建物の外看板。


 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010

■1991年バリケード記念館訪問 

 急な階段を登り、ブザーを押すと担当の女性が鍵を開けてくれた。入場料は無料。

 内部は3つの小さな部屋からできており、真ん中の部屋で事件当時のヴィデオが見れる。また事件が起きたリーガ大聖堂があるドゥァマ広場の再現模型なども展示されている。



■記念館設立の趣旨と目的 

 
以下は、1991年のバリケード記念館のパンフレットから。

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990年代にラトヴィアでは、橙の目標であるラトヴィア共和国の独立を取り戻すための民族覚醒が起こりました。

 ソ連政府はこの動きに絶望的な妨害を加えました。1991年1月にその戦いが極限に達したときに、人々は「ラトヴィア人民戦線」の呼びかけに呼応し、ラトヴィアの独立運動を皆で守るためにバリケードを築き、モスクワの軍事力を阻止しました。

 バリケードが築かれた期間の出来事を歴史的な記憶として残し、また国の独立の概念を現代社会において体現すべく、2001年5月24日に「1991年のバリケード参加者サポート基金」によって「1991年のバリケード記念館」が設立されました。


1991年のバリケード事件が起きた大聖堂前のドゥァマ広場
 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010

 「1991年のバリケード記念館」は、リーガ旧市街の中心部、クラーム通りにあります。クラーム通りは旧市街の最も古い通りのうちのひとつであり(1342年に初めて文章に登場する)、昔の城壁のすぐ傍らに位置しています。

 この通りには、17世紀にラトヴィア語の本も出版したリーガにおける最初の出版所であるニコラス・モリン(Nicolas Mollin)の印刷所があったことで有名です。

 「1991年のバリケード記念館」のある建物は、1508年に初めて文書に書かれています。入り口は18世紀後期に特有の石づくりのポータルで装飾されています。また内部のそれぞれの部屋は、19世紀に修復された古典主義とバロック様式で描かれた天井画で装飾されています。

 19世紀に建物は、ドイツ商人ジークフリート・ゴットフリートにより所有されていました。1939年から1940年のバルトドイツ人たちの本国帰還後、建物はラトヴィア信託銀行の管理となり、ソ連時代にはラトヴィア農学校が入っていました。

 1997年よりこの建物には、「1991年のバリケード参加者サポート」及び「1991年のバリケード記念館」が入っています。


パンフレット、何と日本語版があった!
 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010


■バリケード事件の背景

  第2次世界大戦中、ラトヴィアはソ連に組み入れられていた。

 1985年、ソ連の経済を救助をするため選ばれたミハイル・ゴルバチョフは、情報公開(グラスノスチ)と改革(ペレストロイカ)政策をソ連に導入した。 その結果、それ以前に内部機密とされていたことが次々に公開され、スターリン以降のソビエト体制の犯罪事実が露わとなり、ソ連国民の不満を呼び起こした。さらにこの後、期せぬアフガン戦争からのソ連撤退とウクライナでのチェルノブイリ原発事故の災害が起こり、ソ連の崩壊は深まった。

 ソ連国内でもソビエトの体制に対する大規模なデモが起き、 ラトヴィアでも独立運動が開始された。 独立を支持するラトヴィアの政治団体「Popular Front」、ラトヴィア人「緑の党」などによる国家独立運動は、1990年3月18日、親ソビエト派に対し選挙で勝利した。

 1990年5月4日、ロシア最高会議は、ソ連からラトヴィア共和国が独立を宣言し、ソ連から脱退を始めたにもかかわらずこれらの動きを十分に認識していなかった。 その結果、ラトヴィアの独立派と親ソビエト軍との関係は緊張する。他方、全ラトヴィア人救済委員会の勢力は一段と成長していった。

 ソ連は新連邦組織条約制定を急いだが、ラトヴィア側は1990年代後半の署名を拒否した。独立派政党の「Popular Front」は1990年11月27日、新条約を拒否する署名を開始、1990年12月17日までに100万人に及ぶ署名を集めた。

 これに対しラトヴィア内の親ソビエト軍は暴力をもってラトヴィアの権力を掌握することを企てた。そして1990年12月、親ソビエト軍による 一連の爆撃が起こった。 ソ連は起きた爆発の最初の4つについて関与を認めたが、他の爆撃については、不知としていた。

 当時、ソビエト軍、OMON組織そしてKGBがラトヴィアに配置されていた。1990年12月23日、ソ連でクーデターが起きた。それより少し前の1990年12月20日、 ソ連のシェワルナゼ外相は辞職していた。

 1991年1月13日、「Popular Front」はリーガ大聖堂での集会を呼びかけ正午には防衛問題の最高協議会が開かれた。このとき、リーガ市民 約70万人の頭上にソ連のヘリコプターから警告ビラがまかれた。

 「Popular Front」は、市民にバリケードを建設するよう呼びかけた。建設機械やトラックがバリケードを建設するための資材をリガに運び込んだ。バリケードはリーガ以外のリーガ郊外の都市でも建設された。


リーガ大聖堂があるドゥァマ広場につくられたバリケード
出典:1991年バリケード事件記念館のヴィデオ映像より撮影
 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010


バリケードの一部となったコンクリート隗も展示されていた
出典:1991年バリケード事件記念館のヴィデオ映像より撮影
 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010

 1月20日、約10万人のソ連市民は、バルト海沿岸諸国の独立運動を支持するためモスクワに集まった。

 1月20日、リーガのバリケードを親ソビエト運が攻撃、2人の警察官、男生徒、およびカメラマンが殺された。 別のカメラマンは負傷で死んだ。さらに44人のバウスカの警察官、バリケードの5人の関係者、ハンガリー人のジャーナリストおよびロシア人のジャーナリストが負傷した。

 このバリケード事件で、リーガ市民らが少なくとも7人が親ソ連軍に殺され、合計1万5611人がバリケード事件に参加していたことになっている。


1991年バリケード事件犠牲者の慰霊碑
出典:Wikipedia English



 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010

 下は、1991年バリケード事件犠牲者の遺品など。


 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010


 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010

 
世界中から寄せられた激励の手紙。


 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010


 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010

 この後、リーガのまちを後に一路、厳寒のエストニアに向かう。


つづく


【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition