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スコットランド訪問都市概要(2012)
Overview of visiting cities in Scotland

メアリー・ステュアート女王
Queen Mary Stuart

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2017年12月10日公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載禁


はじめに


 このブログは、2012年7月のスコットランド訪問の一つの大きなきっかけとなりました「悲劇の女王、メ アリー・ステュアート」と関連し、スコットランド女王、メ アリー・ステュアートの生涯についての概要紹介です。実際、訪問先の多く、たとえばリンリスゴー城エジンバラ城スターリング城ウォレス・モニュメントロッホ・リーヴェン城ダンドレナン修道院カーライル城などはメ アリー・ステュアートの生涯に密接に関係しています。

 なお、以下の動画は上記の概要を動画としたものです。

 ※青山貞一・池田こみち:
   メアリー女王の足跡を辿る旅 スコットランド・エジンバラ城 YouTube


 本稿の参考、出典は主に 英文Wikipedia 及び 英文Wikimedia Commonsです。


メアリー・ステュアート(スコットランド女王)の概要


メ アリー・ステュアート


スコットランド王国章


スコットランド王国旗


 メ アリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日)は、スコットランドの女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)です。

 メ アリー・ステュアートはスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女です。

 メアリーは王家ステュアートの綴りを Stewart から Stuart に替えましたが、これは自身のフランス好みからであったといいます。同時代のイングランド女王エリザベス一世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっています。

 親しみを込め、しばしば「クイーン・オブ・スコッツ」(スコットランドの女王)と呼ばれています。

 メアリー自身は廃位ののち国(スコットランド)を追われ、エリザベス一世の命によりイングランドで刑死しましたが、その子ジェームズ六世は、スコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせて継ぎました。

 以後スコットランドとイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となりました。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス一世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫となっています。

生涯

誕生と即位


 1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ五世の第三子として生まれました。

 12月14日にジェームズ五世が三十歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後六日で王位を継承しました。摂政には、ジェームズ二世の曾孫の第二代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任しました。

 それからイングランド国王ヘンリー八世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6六世と婚約させられました。

 1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公 エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になりました。

 1548年、王母メアリーの提案でメアリーはフランスのアンリ二世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられました。


フランス王妃


1558年、フランソワとメアリー

 1558年4月24日、メアリーはアンリ二世の王太子フランソワと結婚式を挙げました。同年11月17日にジェームズ五世の従妹に当たるエリザベス一世がイングランド女王に即位すると、アンリ二世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議しました。

 さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、イングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させました。

 7月10日にアンリ二世が亡くなると、王太子がフランソワ二世として即位し、メアリーはフランス王妃となりました。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けました。

 7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われましたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けました。

 イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なものであり、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題となりました。

 またローマ教皇を含む多くのカトリックは、実際にメアリーがイングランド女王であると考えていました。

帰国と親政、ダーンリー卿との再婚


フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

 1560年12月5日、フランソワ二世が16歳で病死しました。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国します。メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問としました。

 当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していましたが、カトリックの貴族も相当数残っていました。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントでしたが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図りました。

 1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こしました。これはマリ伯により鎮圧されました。

 メアリーは再婚相手について検討を始めました。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク二世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなどでした。

 中でも特にメアリーが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ二世の息子ドン・カルロスでした。しかし、カトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス一世に政治的な動機で妨害されるなど、様々な理由から、いずれの相手とも結婚に至ることはなかったのです。

 やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになりますが、これにもマリ伯やエリザベス一世が強硬に反対しました。

 特にエリザベス一世は、メアリーと同じくヘンリー八世の姉マーガレット・テューダーの孫で、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れたのです。

 そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ五世の異父妹、エリザベスの従姉)をロンドン塔に幽閉しましたが、ダーンリー卿は従いませんでした。

 しかし、エリザベス一世と首相のウィリアム・セシルは、性格的に弱いダーンリー卿をスコットランドに送り込むことにより、スコットランドの国力低下を計ろうとしたという説もあります。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿と再婚しました。メアリーはヘンリーに対し、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位を与え、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。

 しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていったのです。

 やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のデイヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようにゆきました。


王子誕生とダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位


リッチオ殺害事件(19世紀、ウィリアム・アラン画)

 1565年8月1日、マリ伯がエリザベス一世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こしました。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させました。

 マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命しました。

 1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっているとき、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きました。

 メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産しました。リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリーは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるよう迫りました。

 しかし、ジェームズが大きくなっても、ダヴィデ(デイヴィッド)の子を意味する「ソロモン」と呼ぶ者がいました。

 子どもは生まれましたが、ダーンリー卿との仲は冷え切ったままでした。当時のスペイン大使によれば、メアリーにダーンリー卿暗殺を提案した者さえもいましたが、メアリーは受け入れなかったといいます。

 その後、メアリーはボスウェル伯に心を寄せるようになりました。

 1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見されました。ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に二人は結婚式を挙げました。

 当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はありませんでしたが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対し、間もなく、第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスら反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こしました。

 6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降しました。メアリーはロッホ・リーヴン城に移され、7月26日に女王を廃位されました。

 歴史小説家のJean Plaidyはこのペンネームで書いた伝記の中で、メアリーがよく行っていたエクスチェッカー・ハウスという小さく、一人でこもれる家の隣の住人がボスウェルの元召使いであり、ボスウェルがよく逢い引きに使っていたことから、ダーンリー卿殺害以前からメアリーとボスウェルが恋人であったと断じています。

 また、メアリーの連行は、合意の上での拉致の演技だといいます。また、メアリーがジェームズの王位継承権を損なわない形でダーンリーを排除したいという言葉が、事実上の殺人命令だったとしています。カトリックのメアリーには、継承権を損なわない離婚ができないからです。

イングランドへの亡命、陰謀と処刑


オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面


ウエストミンスター寺院、メアリーの墓

 1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こしますが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス一世の元に逃れました。メアリーはイングランド各地を転々としましたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許されました。

 しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係しました。

 1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などです。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡されました。

 エリザベス一世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せましたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは処刑されました。この事態を受けて、スペイン王フェリペ二世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がりました。

補足

リッチオ殺害事件について

 このように目立つ方法でリッチオが殺害されたことから、ダーンリー一派はメアリーの暗殺まで狙っていたという説があります。すでにこの事件の前の1566年2月13日に、イングランド大使のランドルフ卿は本国にこんな報告をしています。

 国王(ヘンリー)と父親のレノックスは、スコットランド女王に背いて王位を手に入れようとする計画を進めている。もし計画が実行されればあのリッチオは、国王の了解を得て数日中に殺されるであろう。さらに由々しきことに、私の耳には女王まで暗殺されるという噂まで飛び込んできた。

 また、この事件の首謀者はマリ伯だという見方もあります。しかし、前年に起こした反乱について心から自分の過ちを後悔しているとして、メアリーは赦免したため、マリ伯はスコットランド帰国が叶い、以前同様メアリーに重用されることになりました。

ダーンリー卿暗殺事件について

 カーク・オ・フィールド教会でのダーンリー卿暗殺事件に関しては、ボスウェル伯が首謀者とするならなぜ、彼ほどの経験豊富で優秀な軍人が、ダーンリー卿1人を殺害するのにわざわざこんな目立つ方法を選んだのかという疑問が生じます。

 また、ダーンリー卿が自らの即位を目論んで、メアリーをここで暗殺しようと計画していたとする説もあります。メアリーがボスウェル伯のダーンリー卿暗殺計画に賛成した手紙も含まれているとされている「小箱の手紙」に関しても、メアリー・ステュアート研究者達の間では、この数枚の手紙をメアリーの直筆とする説には近年では否定的になってきており、偽造されたとする説が優勢になってきています。

ブキャナン文書

 メアリーに関しては、同時代の人文学者で歴史家であるジョージ・ブキャナン(1506 - 1582)が書いた文書が知られています。彼は、ダーンリー卿の生前からのメアリーとボスウェル伯との不倫を自分の文書の中で主張していました。

 その一例としてこんな文書があります。1566年の10月16日、メアリーはイングランド国境に近い、エディンバラ南東部のジェドバラという町の付近を荒らし回っている盗賊団について、国境警備指揮官のボスウェル伯と話し合うため、マリ伯他数人の臣下達と共にボスウェル伯のいるハーミテージ城に向かい、そこに2時間足らずの間滞在している。

 ブキャナンはこの日のこの出来事について、「この時すでに、メアリー女王はボスウェルの愛人で、女王はハーミテージ城ではその名誉と身分にあるまじき恥ずべき行為をおこなった」と文書に書き残しています。

 しかし、ボスウェル伯はこの8日前にジェドバラの盗賊団と戦い、盗賊団の首領は倒したものの、頭と右肩と左腕に重傷を負っていました。この時、すでに彼は出血多量により意識不明になっていて、助かるかどうか微妙な容態であったといいます。

 そのため、もうボスウェル伯は死んでしまったのではないかと考える人々も多かったといいます。ボスウェル伯は担架で近くのハーミテージ城に運ばれました。この知らせは瞬く間に広がり、スペイン大使はメアリーに深い同情を寄せてこう言っています。

 「もはやスコットランド女王は頼みの綱を失ってしまった。あれほどの人物はめったにいるものではないというのに」しかしこのボスウェル伯の死は誤報だとわかり、周囲の人々は安心したという。

 ブキャナンは後にメアリーの敵対者側に寝返っている人物で、メアリーの敵対者達の依頼を受けて、このようなメアリーに関する事実と異なると思われる誹謗文書を多く作成しているため、現在のメアリーに関する悪評は差し引いて考える必要があると思われます。

スペインへの手紙

 メアリーは1567年11月、フェリペ二世に宛てて、自分はエリザベス一世とあまりにも親しい関係のように思われていて、カトリックの司祭を頼む事もできないような有様だが、そんな話を聞いて、メアリー女王はもうカトリックの信仰を守らなくなったのだなどと考えてもらっては困ります。という内容の手紙を書いています。また、どこまで本気で書いたのかは不明とはいえ、1577年には実子のジェームズはカトリック教会に復帰する見込みがないので、イングランド王位継承権をフェリペ二世に譲渡する。という遺言状や、1586年5月末にも、当時パリにいたフェリペ二世の臣下のメンドーサに宛てて息子のジェームズが自分の死ぬ日までにカトリックにならない場合、自分はイングランドの王位継承権をフェリペ2世に委託する。という手紙を書いています。

 この他にもフェリペ二世が、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアに軍勢を率いさせ、スペイン領ネーデルラントからイングランドに侵攻し、メアリーを救出してドン・フアンと結婚させるという計画を、1576年頃に立てていたという説もあります。

 このように、最後までフェリペ二世は、同じカトリックの君主として、メアリーに対して協力的な態度が見られます。フェリペ2世のこのような態度には、フェリペ二世の3人目の妻で、メアリーがフランス王太子妃時代に義妹かつ幼なじみとして大変に親しかったアンリ二世の長女エリザベート・ド・ヴァロワの存在があったと考えられています。

 フェリペ二世は彼女のために舞踏会を催したり、朗読家に朗読をさせたり、共に遊んだりするなど、仲の良い夫婦fでした。

メアリーは1567年9月末に彼女に宛てて、

 フランスで共に育った2人の揺るぎない友情にかけて、スペインの援助を要請する。自分が改宗するかのような話が流れているのはあくまで見せかけだけの事で、自分は決してカトリックの信仰を捨てるつもりはない。などという内容の手紙を書き送っています。2人の友情はお互いに嫁いでからもずっと続いていたらしく、エリザベートはダーンリー暗殺に関して、メアリーは無実であると夫に訴えていた可能性があると考えられます。なお、エリザベートは1568年10月3日に死去しています。

系譜

メアリー1世 父:ジェームズ5世 祖父:ジェームズ4世 曽祖父:ジェームズ3世
曽祖母:マーガレット(デンマーク王女)
祖母:マーガレット・テューダー 曽祖父:ヘンリー7世 (イングランド王)
曽祖母:エリザベス・オブ・ヨーク
母:メアリー・オブ・ギーズ 祖父:クロード (ギーズ公) 曽祖父:ルネ2世 (ロレーヌ公)
曽祖母:フィリッパ(ゲルデルン公女)
祖母:アントワネット・ド・ブルボン 曽祖父:フランソワ
曽祖母:マリー・ド・リュクサンブール


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