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    サンディエゴ湾現地視察
   
   
   B航空母艦 ミッドウェー

            
青山貞一 Teiichi Aoyama
                   掲載月日:2010年12月13日
                         独立系メディア「今日のコラム」

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@第3艦隊コロナド海軍基地   A米海軍(ミッドウェー)博物館
B航空母艦ミッドウェーの歴史  Cポイント・ロマ岬と市民公園

■航空母艦、ミッドウェーの歴史

 米海軍の航空母艦といえば、現在、 日韓合同演習、日米合同演習で有名となった米海軍第7艦隊の原子力空母、ジョージワシントンがあるが、サンディエゴ港で博物館となっているミッドウェーは、太平洋戦争終結時に第6艦隊に配属されて以来、1991年の湾岸戦争まで稼働していた巨大な航空母艦である。

 以下は米海軍博物館資料にもとづく航空母艦、ミッドウェーの歴史である。

 ミッドウェーは1947年10月29日、第6艦隊に配属され、地中海への最初の航海を行う。海/空軍力の強力な拡張が行われ、ミッドウェーもより大型な航空機を運用するための補強と、通信設備の増強が行われた。

 1952年にミッドウェーはNATO軍との北海演習に参加し、10月1日に艦種番号が CVA-41へ変更された。

 ミッドウェーは1954年12月27日にノーフォークを出港し、喜望峰を経由して台湾に向かう。台湾では西太平洋での作戦参加のため第7艦隊に加わり、1955年6月28日まで活動した後ピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホールに入った。

 ミッドウェーは1958年に第7艦隊に配属され、カリフォルニア州アラミダが母港となる。

 さらに1961年春のラオス危機では南シナ海に展開する。

 1962年にはその艦載機が日本本土、朝鮮半島、沖縄、フィリピン、台湾の防空システムをテストした。


1963年時点のミッドウェー(博物館の資料写真)


ミッドウェー上で発艦準備をする2機のF-8(1963年)(博物館の資料写真)

ミッドウェー艦歴
発注
起工 1943年10月27日
進水 1945年3月20日
就役 1945年9月10日
退役 1992年4月11日
除籍 1997年3月17日
その後 博物館として公開
性能諸元
基準排水量 建造時:45,000 t
満載排水量 建造時:60,000 t  退役時:74,000 t
全長 296 m (972 feet)
全幅 34.4 m (113 feet)
吃水 10.5 m (34.5 feet)
機関 ウェスティングハウス式蒸気タービン4軸, 212,000hp
速力 最大33 ノット (60 km/h)
航続距離 11.520 海里(15ノット時)
乗員 士官、兵員 4,104名
兵装 5インチ砲18基
40mm機銃84基
20mm機銃68基
搭載機 137機(規定)
100機(第二次世界大戦 - 朝鮮戦争
68機(ベトナム戦争 - 退役時)

 ミッドウェーは1965年3月6日に再び極東へ展開し、4月中旬から南北ベトナムに対する艦載機による攻撃を行う。

 ベトナム戦争において当時ミッドウェーに展開していた第二空母航空隊は、6月17日に2機のMiG-17戦闘機を撃墜した。これは東南アジアにおいて確認された、

 1965年11月23日にアラミダに帰港し、ミッドウェーは1966年2月11日にサンフランシスコ湾海軍造船所のドックに入る。ここで大規模な近代化 が行われるが、非常に高価な物となり論争の的となっている。この近代化によりフライトデッキは11,300m2から16,200m2まで拡張され、エレベータは可搬重量が2倍に増強、再配置された。

 また、新型カタパルト、着艦制動装置、エアコンの集中化が行われ、予算は8,800万ドルから2億200万ドルまで超過した。このためフランクリン・D・ルーズベルトのために計画された同様の近代化はキャンセルされた。ミッドウェーは1970年1月31日に再び作戦行動に入る。

 その後ミッドウェーは1971年5月18日に再びベトナムへ戻り、ヤンキー・ステーション(Yankee Station)でハンコック (CV-19) に代わって同月末まで活動を行う。

 またヤンキー・ステーションを6月5日に出港し、10月31日に任務を完了、11月6日に母港へ戻った。

 ミッドウェーは、第5空母航空団 (Carrier Air Wing 5, CVW 5) を乗艦させると、1972年4月10日に再びベトナムに向けてアラミダを出港する。5月11日にミッドウェイの艦載機はコーラル・シー (CV-43)、キティホーク (CV-63)、コンステレーション (CV-64) の艦載機と共に北ベトナムの港に機雷敷設を行う。1972年の夏を通じてミッドウェイはベトナムで作戦行動を行った。

 1972年8月7日、ミッドウェイから発艦したHC-7 Det 110ヘリコプターはサラトガ (CV-60) からの探索機を支援し、北ベトナムへ不時着したパイロットの捜索作業を行った。

 サラトガからのA-7 コルセアIIは8月6日、ビン北西部、30km内陸地点で地対空ミサイルによって撃墜されていた。HC-7はパイロットを救助するため山地を飛行し、降下地点特定のためサーチライトを使用したことから激しい対空放火を受けたが、パイロットを救助、沖合の揚陸艦へ帰還するのに成功した。

 これは1968年以来北ベトナムへ最も深く入り込んだ救難ヘリコプターの飛行であった。HC-7 Det 110はその救助任務を継続し、1972年の終わりまでに48回の救助作業に成功した。これらのうち35回は戦闘状態の下に行われた。

 1973年10月5日、ミッドウェーと CVW 5は横須賀に配属が決定し、日本における初の空母戦闘部隊として1972年8月31日に配備された。


日本の横須賀に停泊中のミッドウェー
出典:Wikipedia

◆米空母ミッドウェーの横須賀入港
横須賀港に入港する米空母ミッドウェー。同空母は米海軍初の海外母港として米アラメダ軍港から日本の横須賀に母港を移した(1973年10月5日、神奈川・横須賀市) 【時事通信社】


◆横須賀港と米海軍航空母艦
1972年(昭和47年) アメリカ海軍の航空母艦「ミッドウェー」が横須賀海軍施設を事実上の母港として配備される。
1974年(昭和49年) アメリカ合衆国ロサンゼルス港、ロングビーチ港と姉妹港提携。
1991年(平成3年) 「ミッドウェ-」に代わり「インディペンデンス」配備。
1998年(平成10年) 「インディペンデンス」に代わり「キティホーク」配備。
2008年(平成20年) 「キティホーク」に代わり「ジョージ・ワシントン」が配備。

 外国の港での乗員とその家族の士気要因に加えて、経済状況が空母運用の縮小を要求したため、極東における空母3隻態勢と相まってその動きは戦略的な重要性を持つことになった。

 さらに北ベトナム軍が南ベトナム国土の3分の2に侵攻するに及びミッドウェーおよびコーラル・シー (CV-43)、ハンコック (CV-19)、エンタープライズ (CVN-65)、強襲揚陸艦オキナワ (LPH-3) は1975年4月19日に南ベトナムの沖合に展開した。10日後、第七艦隊によってオペレーション・フリークエント・ウィンドが実行された。

 サイゴン陥落後、何百名ものアメリカ人及びベトナム人が沖合に待つ艦艇に収容された。ある南ベトナム軍のパイロットは、自らの家族とともに小型機でミッドウェーに着艦した。このオペレーション中に、ミッドウェーは搭載していた航空団の戦闘機を母港の横須賀に待機させ、サイゴンからの避難民を南シナ海で巡航する艦隊に送り届けるための空軍のCH-53 シースタリオンヘリコプター10機を運搬した。

 ミッドウェーは作戦終了の 1ヶ月後に本来の航空団を再び乗艦させた

 1980年代は、横須賀を母港として他の空母の支援に当たった。

 1986年に、アメリカ海軍空母として最後のF-4Sの発艦ミッションが行われた。その後横須賀で大規模な近代化改装が施され、併せてF-4SとA-7E両者の任務を兼ねるF/A-18Aが配備、戦力の向上が図られた。

 この改装の主なポイントは、F/A-18の運用に備えて、カタパルトを強化すると共に、船体側面に浮力を増すためのバルジ(ブリスター)を追加する物だった。しかし、バルジの設計が不適切だったようで、改装直後のミッドウェイは航行時、舷側から不自然な白波を発生させている姿を目撃されている。

 船体の動揺も大きくなり、艦齢が進んでいたこともあって、この後しばしば、早期退役説が流れることとなった。しかし、実際の退役は湾岸戦争後のこととなるが、整備や改装工事の際に、大量のアスベストを用いた事により、横須賀基地の日本人工員がアスベスト被害を受けて問題ともなった。

 1988年のソウルオリンピック開催時には韓国近海で原子力空母ニミッツと共に警戒の任にあたった。

 1990年8月にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が発生すると、アメリカ軍はデザート・シールド作戦の名称で、サウジアラビアおよびその周辺に兵力を展開した。ミッドウェーもその一環として、11月1日より北アラビア海に展開した。そこで、海兵隊の上陸演習支援などを行った。

 下は現役時代のミッドウェーである。


現役時代の航空母艦、ミッドウェー(博物館の資料写真)

 湾岸戦争開戦翌日の1991年1月16日にレンジャーとともにペルシャ湾に入り、そこより航空攻撃を行った。戦争中は同地に留まり、母港の横須賀帰港は戦争終了後の3月11日のことである。

ミッドウェイ級航空母艦(Midway class aircraft carrier)

 米海軍の航空母艦の艦級。近代史上における最も長期間の就役年数を誇る航空母艦の艦級で1945年の後半に就役が始まった本級は、最後まで現役であった一番艦のミッドウェイが、湾岸戦争に参加後の1992年に退役した。


 ミッドウェー級の就役直後は、エセックス級よりも30から40機以上多い艦載機数を誇り、同時代における最大の空母であった。エセックス級では見送られた飛行甲板の装甲化を実現しており、鋼鉄の厚さは約9cmである。第二次世界大戦ではおよそ130機の航空団を運用した。不運にもその艦載機数は一艦における有効な指揮統制能力を超えていたことが間もなく認識された。しかしながら本級の搭載能力は1950年代後半から運用が開始されたより大きくより重いジェット戦闘機にとって最適の艦となった。

 本級のいずれもが朝鮮戦争には派遣されず、主として地中海に展開した。本級はその後のベトナム戦争に派遣され、コーラル・シーはベトナム水域に展開し、ミッドウェーは3つの作戦に従事した。フランクリン・D・ルーズベルトは再び地中海に配備される直前に短期の戦闘配備が行われた。

 1970年代末に本級は老朽化し、1977年にフランクリン・D・ルーズベルトが退役した。ルーズベルトの最終時にはAV-8 ハリアーが搭載されSTOVL機の運用テストが行われた。

 残りの二隻は1980年にロナルド・レーガン大統領が就任し600隻艦隊構想を打ち出したため退役を免れた。二隻は耐用年数を延長するための改修が行われたが、この運用延長も長くは続かなかった。「不老の勇士」の愛称で呼ばれていたコーラルー・シーも1990年には海軍の退役リスト上にあった。

 ミッドウェーはアメリカ海軍が湾岸戦争に派遣した6隻の空母のうちの一隻であったが戦争の数ヶ月後に同級の最後の一隻となったミッドウェイは退役が決定した。
コーラルー・シーは法的、環境的問題から6年の長期に渡ってゆっくりとスクラップにされ、ミッドウェイは同船を博物館とする運動グループによって救い出されるまで10年間モスボール状態で保管されていた。現在はサンディエゴ博物館として一般に開放されている。

 ちなみにミッドウェーの母港は横須賀で、唯一海外で改装工事を受けた空母となった。

出典:Wikipedia

 2009年末に、横須賀に入港していたミッドウェーが核装備していたことが日本の外務省の内部調査で分かった。

核搭載艦、母港化認める=ミッドウェー配備時に「密約」−日米
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009122700161

 米海軍が1973年に空母ミッドウェーを神奈川県の横須賀基地に配備するに当たり、核兵器を搭載した状態での入港・停泊を日米安全保障条約の事前協議の対象外とする「密約」を日米両政府が結んでいたことが27日、分かった。外務省の内部調査で、そうした事実を示した文書が見つかった。複数の関係者が明らかにした。

 60年の日米安保条約改定の際、米軍の装備などに変更がある場合は事前協議を行うと定めたが、核搭載艦船の寄港・通過は対象にしないとした密約の存在が、同省の調査で既に確認されている。ミッドウェーの横須賀配備に先立つ72年、大平正芳外相(当時)とジョンソン米国務次官(同)との会談などで、60年の密約の有効性を再確認し、「寄港」にとどまらず母港化に伴う長期の「停泊」の場合にも適用することで合意した。

 45年に就役したミッドウェーは米海軍の主力空母の一つで、ベトナム戦争の作戦に加わった後、73年10月に横須賀基地に配備された。後継艦インディペンデンスと交代した91年まで同基地を母港とした。 

 日本側が核搭載空母の横須賀配備を黙認する「密約」を結んだのは、首都圏に位置する同基地への核持ち込みが表面化して、混乱が起きることへの懸念もあったとみられる。

 岡田克也外相の要請に基づき、密約の検証作業を進めている有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)も、ミッドウェー配備をめぐる日米間のやりとりに大きな関心を寄せており、関連文書を検証の対象とする考えだ。

時事通信(2009/12/27-21:09)

 なお、航空母艦の名称ともなったミッドウェーは、いうまでもなく太平洋戦争時、米英連合軍が日本軍を打ち破ったあのミッドウェー開戦から来ている。以下は、米海軍が作成したミッドウェー開戦の映画である。



つづく