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石田三成の古里

三成のエピソードA

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
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石田三成の古里 2016-9-7
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O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

◆良民&家臣は心の友! 
  〜三成に関係する各エピソードを紹介〜


1. 三成に過ぎたる者 〜名将 島左近〜

 五奉行の筆頭となった三成ですが、その三成に「過ぎたる者」と称された石田家の重臣がいます。それがご存じ「島左近」!左近は「関ヶ原の戦い」で激戦を繰り広げ、壮絶な討死を遂げたと言われている人物です。(生存説あり)

 左近の鬼のような声は敵を震え上がらせ、江戸時代に入ってもそのことを思い出すだけで元兵士たちは身の毛がよだって汗をかき夢にまで見て飛び起きた、という程だったと言います。

 そんな猛将の左近を三成は自分の禄高半分を与えて召し抱えた逸話が残っております。

 「水口城主になり4万石を与えられた三成は、優秀な家臣を召し抱えるために、筒井家を離れ浪人となった左近を召し出した。そこで提案した禄高は2万石、左近は三成に仕えることになった。」

 実はこの逸話、少々問題がありまして、三成が1583年に水口城主となった時といわれていますが、その頃に4万石をもらっているのはあまりにも多すぎるのです。「賤ヶ岳の戦い」で武功第一といわれた福島正則が5000石しかもらっていないので、いくら一番槍を挙げて、側近として優れていた三成でも、4万石はもらいすぎです。

 諸説ありますが、おそらく三成は水口城主になった時は、4万石より少なく1万石前後の禄高をもらっていたと考えられます。では、この左近との逸話はなかったのか!? 真偽の程は誰もわかりませんが、私は1万石という少ない禄高の中から半分ほどを左近に与えたのではないかと思いたくなります。

 「そこまでして俺を雇ってくれるか」左近はそれを粋に感じ、「関ヶ原の戦い」で最後まで三成に忠節を尽くしたのではないでしょうか。



2. 給料は全部使え!〜残す奴は盗人、使いすぎる奴は馬鹿〜

 三成が常に口にしていたという言葉に、こういったものがあります。

 「奉公人は主君より賜るものを遣い、合わせて残すべからず。残すは盗人なり、また、遣い過ぐして、借銭するは愚人なり」

<ざっくり訳>

 「家臣は主君から与えられた俸禄を全部使い切って奉公すべきである。残す者は盗人、また、使いすぎて借金する者は愚人である。」

 三成の奉公の心得とも言うべき名言です。左近を自分の禄高の半分を出して雇ったというのも、こういった三成の精神が常にあったからでしょう。

 また、「関ヶ原の戦い」後に、居城の佐和山城が家康率いる東軍に攻め落とされ、占拠されることになってしまいました。

 「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近に佐和山の城」と称された名城に入った東軍の将兵は、「秀吉の寵臣だった三成の居城だから、中には金銀財宝が詰まっているだろう。」と予想していたのですが、結果は正反対!金銀財宝などは全くなく、城内の造りはきわめて質素だったそうです。

 居間は板張り、壁は粗壁、庭園や樹木も最低限のありきたりのもの、手水鉢なども粗末な石だったといいます。余計なところにはお金は使わない! 軍資金や雇用費にまわした三成の合理性がわかる逸話ですね。



3. 自分のことより大谷吉継 〜紀之介を召し抱えてください!〜

 三成の元服時期は不明ですが、秀吉の近習として中国地方へ赴いている時だったと言われています。

 元服後に、「佐吉」から改名して、まず名乗ったのは「三也」という名前だったそうです。その後、これも時期は不明ですが、従五位下・治部少輔に叙任されたときに、「三成」と改めたとされています。

 そんな三成は、秀吉が元服祝いとして与えようとした2000石の加増を拒否したという逸話が残っています。

 元服祝いとしては多すぎるほどの加増です。私だったら、「恐悦至極!」と即座に頂戴してしまいそうですが、三成には断る理由がはっきりとあったそうです。

 それは――「殿、その加増の分で紀之介を召し抱えてください。」 紀之介とは後の大谷吉継!吉継の才能に気がついていた三成が秀吉に推薦したそうです。なぜ、吉継が三成と運命をともにしたのか、こういうところにその訳が隠されていそうですね。



4. 「へいくわい者」を愛した友 〜義将・大谷吉継〜

 敵が多かったと言われる三成にも親友が居ました。皆さんご存知、大谷吉継です。

 徳川家康を討つことを決意した三成は、まず、親友の大谷吉継に打ち明けたと言います。しかし、吉継は「軽挙妄動である。勝ち目のない戦いはやめた方がよい」と三成を説得して、意見が食い違ったまま別れたそうです。

 しかし、後日、吉継は三成とともに戦う決意をしました。それは、「無二の親友を裏切ることはできない。そして豊臣政権を守りたい。」という想いだったのかもしれません。そのとき、吉継は三成にこう忠告したと言います。

 「殊外へいくわいに候とて、諸大名をはじめ、末々の者も日比あしく取り沙汰を仕る由也。毛利輝元、宇喜多秀家両人を上に立て、その下に付いてことを取り計れ候。」

<ざっくり訳>

 「三成はかなりの横柄者だとして、大名だけでなく下々の者も日頃から悪く噂している。毛利輝元や宇喜多秀家を大将に据えて、その下で計画を立てよ。」

 吉継の歯に衣着せぬ言葉から、二人の親密さを感じ取れます。また、二人の間には、秀吉の茶会に関する逸話もまことしやかに伝わっております。

 「ある日、秀吉の茶会に誘われた吉継や三成などの諸大名。吉継が一口ずつ飲んで茶碗を次客に回そうとした際、病気が原因の膿が顔から落ちてしまった。諸将はそれに気づき、茶碗に口をつけるのを嫌がり、飲む振りだけをした。そういった中、三成は躊躇わずに茶を飲み干したという。

 吉継と三成は秀吉の下で、ともに奉行職を務めて立身していき、親友という言葉では言い表せない程の心のつながりがあったのかもしれません。


5.領民から慕われた名君 〜私に直訴して良いよ!〜

 1590年(1595年とも)に、佐和山城へ入城した三成は、城内に「十三ヶ条掟」と「九ヶ条掟」という緩やかな掟を出しています。税や田畑の管理について、実に詳細に記されています。

 三成のイメージからすると、官僚的で機械的な内容と文面を想像するかもしれませんが、さにあらず! 中でも、「十三ヶ条掟」の十一条には、「何事によらず、百姓迷惑の儀あらば、奏者なしに目安をもって、庭訴訟仕るべく候。此の如く申すとて、筋なきこと申し上げ候はば、糾明の上結旬、其の身曲事たるべく候間、下にてよく穿鑿候て、申しあぐべく候事」

<ざっくり訳>

 「どんなことでも百姓に迷惑のことがあったら、取次役(奏者)を通さないで直訴してください。ただ、筋が通らないことを言ってくるのは困るので、しっかり調べてから直訴してください。」

 「下々の意見をしっかり取り入れますけれど、そこはしっかり理論武装してきてね」という三成の優しさと合理性を表した三成らしい掟書ですね。

 しかも、この掟書は、村人たちにも読めるように、すべて仮名書きになっているそうです! 領民たちは三成を慕い、三成が没した後も、「三成地蔵」をこっそり祀り、慕い続けたと言われています。その三成地蔵は、現在も佐和山駅周辺に残されています。



6.百姓に救われる 〜あの時のご恩!〜

 「関ヶ原の戦い」で伊吹山に落ち延びた三成は、古橋村へたどり着きました。古橋は三成の母の菩提寺である法華寺がある三成とゆかりの深い土地であり、自らの領地でした。

 三成はまず、この法華寺の三珠院に身を隠したと言います。そこで三成は、住職から「何を御所望か」と問われると、「家康の首」と答え、住職を呆れさせたという逸話も残っています。

 その後、三成の存在は知られることになり、三珠院を脱出し、百姓の与次郎太夫に庇われ、山頂の岩窟に潜伏しました。ちなみに、三成に懸けられた懸賞は、「村の年貢永久免除」「金子100枚」! 

 逆に三成を庇うなどした場合には、「本人だけでなく一族を処罰」というものでした。なのに、この与次郎太夫がいる古橋村は三成を庇いました。なぜなら、かつて飢饉が起きたときに、三成が年貢を免除して、さらに米100石を寄付したことがあったからです。与次郎太夫はそのときの御恩を返すべく、妻に迷惑がかからないように離縁して、三成を匿ったと言います。

 しかし、与次郎太夫に迷惑がかかると感じた三成は、東軍の田中吉政の軍勢に訴え出させ、捕らえられてしまったそうです。また、他村から来た与次郎太夫の養子が密告してしまい、三成は捕らえられたという説もあります。そのため、古橋村では他の村からの養子縁組はしないという習慣ができたという話も残っています。

 三成が領民から愛され、善政を敷いていたことがわかる逸話です。



7.最期の最期まで石田三成 〜屈しない精神〜

 捕らえられた三成は、最期の最期まで決して諦めず、気概を捨てることはありませんでした。

 家康の本陣の大津城まで送られた三成のところに、馬上の福島正則が通りかかったといいます。三成嫌いで有名な正則が、「無益な乱を起こし、今のその有様は何事であるか!」と大声で罵ると、「武運?くして、汝を生け捕ってこのようにすることができなかったことを残念に思う。」と三成は毅然として答えたそうです。

 さらに、関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀明が通りかかると、「汝の二心あるを知らなかったのは愚かであったが、太閤の恩を忘れ、義を捨てて約に違い、裏切りをした汝は武将として恥じる心はないか」と激しく罵倒したといいます。

 その後、三成は、車に乗せられて洛中を引き回された末、六条河原の処刑場で斬首されました。

 三成が刑場へ向かう際の心情を伝える有名な逸話が残されています。

 引き回しの最中に喉が渇いた三成は、警護の者にお湯を所望しました。すると、その者は「お湯はないが、これがある」と干し柿を差し出しました。ところが三成は、干し柿は「痰の毒であるから食べない」と言って断ったと言います。

 周囲は「これから首をはねられる者が毒を断るのはおかしい」と言って笑いました。すると、三成は「大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大切にするものだ。それは、本望を達したいとの思いからである。」と返したといいます。

 最期の最期まで三成らしく、清々しさを感じます。この諦めない精神と屈しない義の心が三成の大きな魅力ですね!



8 負けたからといって死ぬことはない! 〜三成が愛読書から学んだ武将論〜

 三成は最期の最期まで生きることを諦めず、自分の大望を成就させようと腹を切ろうとはしませんでした。

 これは、三成の愛読書だった「源平盛衰記」から学んだ武将論かもしれません。

 この中で、流罪の身から平家打倒のために挙兵した源頼朝は、「石橋山の戦い」で平家に大惨敗して敗走しました。その最中、朽ちた大木の洞に身を隠して難を逃れました。この時、頼朝は、「一度戦いに敗れたからといって命を捨てるべきではない。何とか遁れて大事を成就しようとすることこそ兵法にかなうものだ」と語ったと言います。

 その後、頼朝は関東中の武士を引き連れて平家を滅ぼし、鎌倉幕府を創設して、見事に大事を成就させました。

 三成は自身が捕縛され、家康の重臣である本多正純に「敗れても自害せず搦め捕られたのは貴公らしくない」と暗に批判されると、怒ってこう返したと言います。

 「汝が如きは、武略を露ほどにもわきまえぬ者だ。腹を切って人手にかからじとするのは葉武者の心がけである。その昔、源頼朝公が朽木の洞に身を潜めた心は、少しも分かるまい。大勝の道をいくら語っても汝の様な者の耳には入らないだろう」

 三成は源頼朝に自分を照らし合わせ、一度負けたからといって、決して諦めることはしなかったようです。これは現代の我々にも繋がる精神だと思います。

 「一度失敗したからといって、諦める必要は決してない!再起を計れ!」 三成が最期に残した我々。。。。(判読不明)



つづく