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ポーランド現地調査(後半)
中世の要塞都市、
ザモシチ(
Zamosc)を歩く

青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学大学院環境情報学研究科

18 June 2009 無断転載禁
初出:
独立系メディア「今日のコラム」

前半 後半 
【ポーランド南部の強制収容所 視察】 【ポーランド東部の強制収容所 視察】
3月10日:クラクフからアウシュビッツへ 3月12日:東部の3大収容所、ベルゼック
3月10日:アウシュビッツ収容所の施設概要 3月12日:東部の3大収容所、ソビボル
3月10日:アウシュビッツ収容所の歴史を知る 3月12日:東部の3大収容所、トレブリンカ
3月10日:死の壁・集団虐殺実験・断種実験 3月12日:マイダネク強制収容所の概要
3月10日:強制連行・収容・虐殺・飢餓・遺品 3月12日:マイダネク強制収容所の歴史
3月10日・絞首台・前置室・人体焼却炉 3月12日:マイダネク強制収容所の実態
3月10日・アウシュビッツからビルケナウへ 【ポーランド東部の古都視察】
3月10日:ビルケナウの強制収容施設に入る 3月12日:夕暮れのルブリン旧市街へ
3月10日・ビルケナウの焼却施設を調べる 3月13日:旧市街からルブリン城へ
3月10日:アウシュビッツ・ビルケナウへの鎮魂 3月13日:ルブリンの歴史を知る
【ポーランド南東部の古都 視察 3月13日:ルブリン城(博物館)
3月11日:南西ポーランドのプジェミシル 3月13日:心の故郷、カジミエーシュ村
3月12日:ジェシェフからザモシチへ 3月13日:中世の美しい村カジミエーシュ
3月12日:中世の要塞都市ザモシチを歩く 3月13日:世界的オルガンがあるヤン教会
総括報告

■2009年3月12日 中世の要塞都市ザモシチを歩く

 午前8時に、ジェシェフ旧市街のホテルをチェックアウトし、車で次の目的地である中世の要塞都市で世界遺産となっている、
ザモシチ(Zamosc)に向かう。

 ザモシチへのルートは、ショートカットしようと裏道を通る。

 このころから雪が降り出す。東部のザモシチ周辺は標高が200mある。南部のジェシェフに比べると北に気温も低く雪が激しくなる。一面真っ白だ。

 レンタカーのヴィッツにはGPSが着いていない。紙の地図を見ながら目視で
1時間ほど走ったが、どうみても道を間違っているようだ。どんどん深みにはまっているようだ。



 迷った場所は、推定だが、上の地図の点線の→部分である。迷ったときは、「引き返す」の鉄則で国道19号線まで引き返す。


  
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 その後、国道74号線でザモシチに向かう。

 ヴィッツの車窓からは下の写真のような荒涼とした雪原しか見えない。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 結局、40km以上余計に走ることになり、もともと激しい雪で速度が出せないこともあって、到着が予定より1時間30分ほど遅れることになった。

 ザモシチはプジェミシル同様、ポーランドの小さな歴史的なまちだ。多くのポーランドのまちがナチス・ドイツによって旧市街がすべて破壊されてしまったにもかかわらず、クラクフ同様、ナチスからの破壊を免れた都市である。

 まちづくりには、いくつかの流れ、方法とともに中心となる人物、組織が考えられる。その意味からすると、このザモシチはヤン・ザモイスキというひとりの富豪で貴族がトップダウンでつくりあげたまとと言うことができる。

 もちろん、そうはいっても、市民、商人、外国人など多くのひとびとの努力、技能・技術、いわゆる投資がその背景にあることは否めない。たとえばザモシチでは、イタリア人の建築家ベルナルド・モランドが都市計画や建築、デザインの面で絶大な能力を発揮している。

 しかし、ポーランドの他の多くの中世都市が、カソリックなどの宗教それに王侯がいわば権力的にトップダウンでまちを形成しているなか、このザモシチは他の都市とは違った経路をたどり構築されているところにひとつの大きな特徴があると言って良い。



撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 車を有料駐車場に置き、ザモシチの旧市街を歩く。有料駐車場には係員がいて、とめるとすぐに寄ってきて時間が刻印された切符を渡される。2時間単位の料金となっており支払いは駐車場を出るときに係員に渡す。


ザモシチの有料駐車場
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


 ザモシチは現在、世界遺産に指定されている。ポーランドのまちはどこでも見られることだが、ザモシチでも市民の手で中世の町並みを保存するだけでなく、地道な復元作業が行われている。

 ザモシチの人口は約6万7千人、プジェミシルとほぼ同規模の中世の姿を現在にそのまま残す、欧州でも貴重な小さな古都である。


ザモシチの旗とエンブレム

 そのザモシチは、1580年に、ポーランド・リトアニア連合王国の宰相にして、陸軍の最高司令官でもあったヤン・ザモイスキ(Jan Zamoyski)が建設した町である。下の写真は、現在のザモシチに立つヤン・ザモイスキの銅像である。


ヤン・ザモイスキ(Jan Zamoyski)像
撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


 ザモシチのおおきな特徴は、東欧で最初にイタリアのルネッサンス様式の建築物で構成される美しい都市景観にある。それは貴族でもあったが若い頃に感銘を受けたイタリアの都市景観を忘れられず、わざわざイタリアから建築家、ベルナルド・モランドをポーランドのこの地に呼び寄せ、1580年にヤン・ザモイスキが理想とするまちの建設に乗り出した。

 実はザモシチに限らずポーランドの諸都市を訪れると、まちづくり、建築物、構造物などにイタリアの大きな影響を受けていることが分かる。これはドブロブニクなどの旧市街でも同じである。

 ところでまちの名称の「ザモシチ」は、そのヤン・ザモイスキにちなんで名付けられたという。この
ザモシチはまち自体が五角形の要塞(Citadel)で囲まれている。これは大砲が使われ始めた時代を背景に構築した物であり、世界的にはカナダ・ノバスコシアのハリファックスや北海道函館市の五稜郭も似たような死角のない多角形をした要塞都市である。


 私たちはいままで世界中のあちこちの要塞都市を訪問しているが、ザモシチはそのなかでも最も古いもののひとつであり、かつ独特のものであると言える。



 要塞都市でもあるザモシチは、歴史的にはコサック軍、モンゴル軍、スウェーデン軍などの攻撃を受けながら堅牢なほ塁(要塞)で防御し敵を退けていた。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 要塞の塁壁部分は今でも修復工事が続けられている。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 塁壁の修復作業現場にて


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 要塞の修復作業はあちこちで行われていた。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 ザモシチは地政学的に見ると、西ヨーロッパ・北ヨーロッパと黒海を結ぶ結節点にあり、ヨーロッパ各地にバロック建築が流行し始めた時代に、上述のイタリア出身の建築家、ベルナルド・モランド(Bernardo Morando)が建築を指示した後期ルネサンス建築が完璧な姿で残っている。

 さらにザモシチはルブリンなどとともに東ヨーロッパの経済、文化の中心地のひとつとしても栄え、18世紀後半になると、ポーランド分割でオーストリアの所有地となり、またロシアに支配される。さらには第二次世界大戦中はナチス・ドイツに占領されたが、クラクフ同様破壊を免れ、現在に至っている。

 1992年には旧市街全体が世界遺産に登録されている。

 駐車場に車を置き、旧市街の中心部を歩く。しかし、午前中から降り出したザモシチでも降り続いていた。気温はマイナスで、歩いているだけで凍えてくるような寒さだ。

 下はザモシチ旧市街の中心広場にそびえ立つザモシチを象徴する建築物、市庁舎である。この市庁舎は建築様式としては、ルネッサンスとゴシックが融合したものとなっている。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 私たちは下の市庁舎(Ratusz)に入る。それぞれの階に何があるかの表示があったが、いかんせんすべてポーランド語で、残念ながらさっぱり分からない。


ザモシチ市庁舎の案内
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


ザモシチ旧市街広場の象徴、市庁舎
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 市庁舎の入り口にて。


撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 広場に面して立つカラフルな建築物はワルシャワの市場広場、クラクフの中央市場広場さらにはルブリンでも類似のものが見られる。違うところは、各建築物の一階部分がアーケード形式になっていることである。


ザモシチの雪が積もる広場にサバトラのニャンコが
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 この広場に面するカラフルな建築物にはアルメニアの商人が1585年に移り住んでいる。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 下はそのアーケード部分である。雪が多いこの地方では、このタリア建築特有のアーケードだけで広場に面する建築物をグルーと一周できるようになっている。アーケードはオリエント風の装飾彫刻がほどこされている。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 
下はザモシチの大聖堂の塔。このカテドラルにはヤン・ザモイスキの遺骨が眠っている。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 下はザモシチ兵器庫博物館。

 この博物館は中世の兵器庫を利用して作られた兵器庫博物館。ロシアとの戦闘やザモシチの見取り図、サーベル、銃刀などが貴重な文物が展示されている。入場料は約180円。



 旧市街の中心にある広場の北側に面してザモシチ博物館、通称、ザモシチ郷土博物館がある。約180円の入場料を出し入ってみる。
 
 郷土博物館にはヤン・ザモイスキ一族の肖像画やまちの模型、要塞の模型、写真、往時の家具、民具、衣装などが展示されている。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12


撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 博物館にはザモシチの模型がある。模型を見ると要塞都市の実態がよく分かる。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 実はザモシチでもナチス・ドイツによる虐殺と無縁ではなかった。ザモシチの南に行ったところに大きな円形をした要塞風の構造物がある。現地ではRotunda Zamojska、ザモシチのロトンダと呼ばれている。

 この構造物はもともと1825年ごろにザモシチ南部の防御を固めるために作られたが、その後は兵器庫として使われた。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.12

 1939年になってナチス・ドイツがザモシチに侵攻してくるとロトンダをユダヤ人、ポーランド人、ソ連軍兵士の処刑の場所として使うようになり、8000人以上のひとびとが処刑されたという。

 ポーランドにおけるナチスの傷跡は、あらゆる場所、地域に残されていると言える。この種のロトンダはワルシャワ北部でも見たが、当初造られた目的とは別に、ポーランドではどこでもナチス・ドイツによる囚人執行のための施設として使用されているようだ。

 それだけをとっても、ナチス・ドイツが当時、ポーランドでしたことのすさまじさ、悲劇は分かるというものである。

 ザモシチでお昼となったが、食事をするような場所がなく、ジェシェフにおけるホテルの朝食の残りを持ってきていたので、車をとめその中で簡単な昼食をとる。

 その後、東部にあった強制収容所、ベルゼックとソビボルに向かう。


つづく