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ポーランド現地調査(前半)
歴史を知る

青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学大学院環境情報学研究科
池田こみち Komichi Ikeda
環境総合研究所(東京)副所長

19 June 2009 拡充 1 November 2010 
初出:
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

前半 後半 全体
基本情報】 3月8日: 北ワルシャワ10号棟博物館
国を知る 3月8日: ワルシャワ蜂起と記念碑
歴史を知る 3月8日:ワルシャワ歴史地区再訪
【訪問概要】 3月8日:ワルシャワ蜂起博物館
訪問先概要(強制収容所・要塞) 3月8日:ワルシャワのゲットー
訪問先概要(町並修復・復元・保存) 3月9日:ワルシャワからクラクフへ
【論考】 3月9日:クラクフ歴史地区視察1
3月7日: 東京からワルシャワへ 3月9日:クラクフ歴史地区視察2
3月8日: ワルシャワ中央駅周辺 3月9日:クラクフ・ヴァヴェル城・大聖堂
3月8日: ワルシャワ歴史地区視察 1 3月9日:クラクフ歴史地区視察3
3月8日: ワルシャワ歴史地区視察 2 3月9日:カジミエーシュ地区
3月8日: 北ワルシャワ要塞・死の門 3月10日:早朝に知の殿堂を歩く

■ポーランドの歴史概要

 ポーランドは歴史的に翻弄され数奇な運命をたどった国である。

 歴史上もっとも有名なのは第二次世界大戦時に隣国ドイツのナチス・ドイツとソ連両国の侵略を受けるだけでなく、アウシュビッツに象徴される強制収容と殺戮の一大舞台とされた国であることだ。

 したがってポーランドという国を知る上で、その歴史を理解することは極めて重要である。

 ポーランドは10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成した。

 その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割され消滅

 第一次世界大戦後の1918年に一旦独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の両国から侵略を受け再び国土が分割された

 戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活した。

 1989年に民主化を果たして共和国となる。

 冷戦時代はソ連の影響下におかれたために政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから中欧または中東欧として再び分類されるようになっている。

 以下のポーランドの歴史の出典は、主にフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によっている。


■拡大と度重なる分割、ポーランドの歴史(詳細)

 ポーランドの歴史は紀元前13〜4世紀に遡る。5〜7世紀にスラブ人がこの地に定住するようになる。

 9〜10世紀、ポラーニエ族が部族を統合し国家を統一する。このポラーニエは”平原の民”を意味し、その後の国名のポーランドのもととなっている。ポーランドとは平原の土地、国を意味している。

 10世紀になって当時の王朝がカソリックに改宗し神聖ローマ帝国に対し独立を維持する。

 1025年、ポレスワフ1世がローマ教皇から正式にポーランド国王に認められる。

 その後、ボレスワフ2世は4人の息子と后にポーランドを以下の図にあるように7つの地域に分割相続させた。 

 すなわち、ボレスワフ2世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ1世ヘルマンにはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。

?? クラクフ大公領

?? シロンスク公領


??
 マゾフシェ公領


?? ヴィエルコポルスカ公領


?? サンドミェシュ公領

?? 后の相続領

?? ポモージェにおけるポーランド王国の直轄領

ポーランドの最初の分割 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 1079年、大公位についたヴワディスワフ1世ヘルマンは国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。

 1241年、モンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。

 時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦いである)。

 装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返した。

 それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。

 以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。

 モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。

 彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。

 これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。

 以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。

 ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。

 1320年、ポレスワフ3世没後、国土をヴァディスワフ1世が再統一し首都をクラクフ(Krakow)に置く。

 ※今回の調査でクラクフを訪問


ヴワディスワフ1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。

 以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。

 当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。

 1364年、カジミエーシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。

 ※今回の調査でクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を訪問
   また大王が居城したカジミエーシュ村も視察した。

 1370年、カジミエーシュ3世(大王)時代最盛期を迎えるが3世没後ピャスト王朝は断絶する。


カジミエーシュ3世(大王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ※今回の現地調査では、カジミエーシュ大王(Kazimierz Wielki)
   
の居城跡も訪問した。地名は大王の名をとりカジミエーシュという。
 
  この大王は「民衆のことを常に考え、町を木造から石造りに変えた
   モダンな王」として今に語り継がれているという。

 1985年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。
 
 1386年、こうしてポーランド・リトアニア連合によりヤギェウォ(Jagiellonski)王朝が始まる。

 1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルドの闘いでドイツ騎士団を破り領土を拡大する。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団領はポーランド=リトアニア連合に隷属する状態となった。

 1430年、リトアニア大公のヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。

 1543年、ミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。


ニコラウス・コペルニクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  ※今回の調査ではコペルニクスの生家は訪問しなかったが
    ワルシャワにあるコペルニクスの彫像を視察した。

 1569年、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合の「ポーランド=リトアニア連合王国」となり、欧州最強最大の国家として君臨した。

  
※今回の調査ではルブリン旧市街を視察


ルブリン合同。ポーランド=リトアニア同君連合王国の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 以後ポーランド=リトアニア連合王国は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。


ポーランド王国の最大版図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。

 1587年、スウェーデン王ヨハン3世の子、ジグムント3世が国王に即位する。

 以後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。

 時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の首都であったクラクフに居を構えた。

 1592年、ポーランド=リトアニア連合王国はスウェーデン王国と同君連合となった(以下の地図で黄色い部分を参照)。


ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。

 当初は当時の首都であったクラクフに居を構えたが、1596年、ワルシャワに遷都した。


ワルシャワ王宮広場に立つジクムント3世像

 以後現在までワルシャワがポーランドの都となる。

 スウェーデンでは叔父で摂政を務めていたカールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。

 1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。

 当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことからロシア正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、住民蜂起が起きたため1612年に撤退した。

 以下の図は1617年におけるポーランド=リトアニア同君連合王国の版図である。

 ポーランドは当時、欧州最大の共和制の王朝となっている。現在の国々、すなわちウクライナ、ベラルーシュ、リトアニア、ラトビア、エストニア、ロシア(カリニングラード)、ロシアの一部との関係を示すをと以下の地図のようになり、欧州における巨大な領土となった。


1619年のポーランド=リトアニア同君連合王国の版図
(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。

 1683年、オスマン・トルコによる第2次ウィーン包囲を撃退し全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、王国中央政府の権力を強めるため世襲王政を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。

 18世紀後半、第北方戦争が勃発、戦争によりより国は衰退の一途をたどる。

 その結果、ポーランドはロシア、プロシア、オーストリアによる
第1次ポーランド分割が行われることになる。

 1793年の第2次ポーランド分割、1795年の第3次ポーランド分割によりポーランド王国は消滅する。

 以下は18世紀における3回に渡るポーランド分割の状況を示す地図である。分割はロシア、プロシア、オーストリアの3カ国により行われた。


ポーランド分割図   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ポーランド分割図の凡例

 1807年、ナポレオンの支援でザクセン家のフリードリッヒ・アウグストがワルシャワ(Warsaw)を支配し、ワルシャワ大公国を創設するが、その後ナポレオンはロシアに敗れ、ポーランドはロシアに併合されポーランド王国となる。

 1830年、フランス革命に呼応しポーランドの民衆に独立の気運が高まる。同年11月に蜂起が起こり9ヶ月継続するも敗北。以降、ポーランドのロシア化が強化されロシア帝国(ロマノフ朝)に併合される。1863年1月に反ロシア蜂起が起こる。ロシア領ポーランドで農奴解放令が布告され、独立運動は沈静化する。

 1882年、ワルシャワで発の社会主義政党(プロレタリアート党)が発足する。

 1918年、前年にソビエト政権が成立。ポーランドに独立の権利が与えられる。11月にルブリン(Lublin)でポーランド共和国臨時人民政府を樹立し123年間に渡る分割時代が終わるが、1926年、ビウスツキーがクーデターを起し、以降独裁政権を続ける。


ユゼフ・ピウスツキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ※今回の調査ではルブリン旧市街を視察

 ルドルフ・ヒットラーは国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。

 1933首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首に就任した。

 軍事力による領土拡張を進める。ポーランドへの侵攻は第2次世界大戦を誘引した。ドイツ降伏直前にベルリンの総統地下壕自室で自殺。

 「指導者原理」を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされている。


アドルフ・ヒトラー

 ヒットラーは、当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを使用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。

 情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。

 1939年、ポーランド・ドイツ不可侵条約を破棄し、ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が勃発。 9月17日ソ連軍がポーランドに侵入、ポーランド政府はロンドンに亡命政府を樹立。


ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


修復・復元された現在のワルシャワ王宮

 1940年、ナチス・ドイツはポーランドの政治犯を収容するためにアウシュビッツ(ポーランド語でオシフィエンチムOswiecim)に収容所をつくる。理由は、交通の便がよいことだった。


有名なアウシュビッツ強制収容所の入り口
働けば解放されるとドイツ語で書いてある(世界遺産)

 その後、施設は拡大される。さらに1941年にナチス・ドイツは、アウシュビッツ第2強制収容所をビルケナウ(ポーランド語で ブジェジンカBrzezinka)につくる。

 1940年から1945年までにアウシュビッツ系の強制収容所では、ユダヤ人を中心に推定150万人が強制収容所で犠牲となったとされている。

 アウシュビッツT、U、Vの強制収容所における犠牲者数は、当初600万人、次いで400万人、さらに250万人と減少しており、1995年にアウシュビッツ-ビルケナウ博物館の入り口にある碑には、150万人(About one and a half million men, women, and children mainly Jews from various countries of Europe)と刻まれている。


アウシュビッツ-ビルケナウ博物館の入り口にある慰霊碑
150万人(About one and a half million men, women, and
children mainly Jews from various countries of Europe)
が犠牲となったとと刻まれている。この碑は1995年に設置
されている。


世界的に有名なアウシュビッツU、ビルケナウ強制収容所の死の門

 ※今回の調査ではオシフィエンチム、ブジェジンカを視察・調査

 ナチス・ドイツは欧州各地に強制収容所を設置し、欧州全体で600万人に及ぶユダヤ人などを結果的に殺戮しているとされるが、それら強制収容所の圧倒的多くはポーランドに設置されている。

 なかでもルブリン南部のマイダネク(Majdanek)収容所で1941年7月に最初の収容者の死刑が執行されたとされている。このマイダネク収容所は、規模ではビルケナウ強制収容所よりはるかに大規模である。


ルブリンに近いマイダネクの巨大強制収容所。イスラエルから
来た高校生のグループが右に見える。ホテルで一緒となる。

 ※今回の調査ではルブリン南にあるマイダネク強制収容所を視察・調査

 1944年、ワルシャワ蜂起。終戦後、国民統一政府発足。1948年、ポーランド統一労働者党結成。共産党一党独裁体制。

 1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、英・米・ソのヤルタ会談に基づいて国境が定められた。

 ポーランド領は戦前と比べて大きく西方向に平行移動した(下図を参照)。

 ソ連はポーランド侵攻以来、不法占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。

 これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。

 事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。


ポーランドの旧国境と新国境
ピンク部分はドイツからポーランド、灰色部分はソ連に編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。

 1956年、1970年、1980年に労働者の大きな暴動が発生し、自主管理労組「連帯」が結成される。翌年初代委員長にワレサ就任。1989年、ポーランド統一労働者党「連帯に政権が移譲され、社会主義体制が崩壊。


ワルシャワ大学前での「連帯」運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ワルシャワ大学正門前に立つ筆者

 1990年、「連帯」議長レフ・ワレサ大統領に就任。


「連帯」議長レフ・ワレサ大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 1999年ポーランドが北大西洋条約機構(NATO)に加盟する。

 2004年5月、ポーランドEUに加盟。


つづく