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  厳寒のロシア2大都市短訪

エカテリーナ宮殿
Дворец Екатерины

琥珀の間の消滅


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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  ・エカテリーナ宮殿 琥珀の間
  
琥珀の間1   琥珀の間2  琥珀の間3  琥珀の間4  琥珀の間5


◆サンクトペテルブルグ市

 


琥珀の間の消滅

 第二次世界大戦中の1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破り、当時ソビエト連邦となっていたロシアに侵攻しました。7月にはドイツ軍はレニングラードと名を変えたサンクトペテルブルクに進行し、9月にはエカテリーナ宮殿へ入ることとなります。

 その後、宮殿内にあった多くの美術品と共に琥珀の間の装飾は略奪されました。ドイツによる侵攻先での美術品の略奪は、ヒトラー総統による新美術館の建築のためであったとされています。


失われた琥珀の間にあったオリジナル作品のモザイク画像「タッチして臭いで」ジュゼッペ・ゾキ(1711年~1767年)によるスケッチに基づいて、ルイ・シリーズが作成、イタリア(-1754年)。ロシアのエリザベータに対するマリー・テレーズの贈り物。
Source:Wikimedia Commons

 琥珀の間の装飾はケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に運ばれました。

 そして、ケーニヒスベルク城の博物館で保管されることになりました。琥珀の間は、暫くカリーニングラードにて展示されましたが、イギリス空軍の空爆にあい、琥珀は全て消滅したとされています。

 下の写真は、「失われた琥珀の間」からのオリジナルアイテムです。これは、1716年にベルリンで滞在中のピョートル大帝にフリードリヒ・ヴィルヘルムIによって贈った棺です。


失われた琥珀の間からオリジナルアイテム。棺。ダンツィヒ。18世紀末。琥珀、金属、箔に糸。エルミタージュ美術館。それは、1716年にピョートル大帝がベルリンに滞在中にフリードリヒ・ホム・ウィルヘルム1世が贈ったものです。 
Source:Wikimedia Commons
Shakko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


 これも失われた「琥珀の間」からのオリジナルアイテムです。

 1716年にベルリンで滞在中のピョートル大帝にフリードリヒ・ヴィルヘルムIが提示されたミラーです。作成は1700から1705年のケーニヒスベルク(現在のロシア領カリニングラード)。エルミタージュ美術館所蔵


失われた琥珀の間からオリジナルアイテム。鏡。ケーニヒスベルク。1700年から1705年。エルミタージュ美術館。一緒に、琥珀の間では、1716年にピョートル大帝がベルリンに滞在中に、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が贈りました。   
Source:Wikimedia Commons
Shakko - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


 下の3枚の写真は、「琥珀の間」を訪れたときのプーチン大統領です。


"サンクトペテルブルグ、ツァルスコエ・セロー300周年記念"にて
Source:Wikimedia Commons
Kremlin.ru, CC 表示 4.0, リンクによる



"サンクトペテルブルグ、ツァルスコエ・セロー300周年記念"にて
Source:Wikimedia Commons
Kremlin.ru, CC 表示 4.0, リンクによる



"サンクトペテルブルグ、ツァルスコエ・セロー300周年記念"にて
Kremlin.ru, CC 表示 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Commons


◆ドイツが「琥珀の間」の一部を返還   ロシアNOW 2013年4月29日 RBTH

 サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローにある夏の離宮「エカテリーナ宮殿」は、「琥珀の間」で名高い。

プロイセンからピョートル1世への贈り物

 琥珀の間の作者は、ドイツの建築家アンドレアス・シュリュターで、1699年以来、プロイセンの王宮の主任建築士を務めていたが、ベルリンの王宮の改築に際し、琥珀をインテリアに使うことを思いついた。琥珀がかつてこのような目的に使用されたことはなかった。

 プロイセン王家には琥珀のコレクションがあり、そのなかに琥珀の枠をもつ鏡が3枚含まれていたことも、シュリュターのアイデアを後押しした。

 1716年、フリードリヒ・ヴルヘルム1世は、琥珀の間をピョートル1世に贈った。大帝の生前には設置されなかったが、娘のエリザヴェータ・ペトローヴナが、冬宮の謁見の間の装飾に利用した。その後、琥珀の間は夏の宮殿に移される。完成は1770年、エカテリーナ2世の治世のことだ。

1997年にモザイクの一部を発見

 独ソ戦に際しては、琥珀の間は、その脆さのために移動させることができず、やむなくガーゼや綿をつめて紙を貼り、封印した。

 ドイツ軍は、琥珀の間をケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に持ち去り、ケーニヒスベルク城で、そのドアと壁面を組み立てた。しかし、ドイツ軍が同市から撤退すると、琥珀の間は行方不明になる。

 「琥珀の間」探しは、戦後すぐに始まるが、見つからなかった。

 ところが、1997年になって、モザイクの一部が、某公証人のもとで発見され、ドイツ当局が没収した。調べによると、ツァールスコエ・セローの離宮で琥珀の間の略奪に参加したドイツ軍将校の一人が、モザイクを公証人に一時的に預けたという。

 2000年4月29日、ドイツは、発見されたモザイクをロシアに返還した。

ロシアNOW 2013年4月29日 RBTH

琥珀の男の夢   ロシアNOW  2013年6月6日 ポーリーン・ティルマン

 「琥珀の間」は彼の人生そのものとなってしまった。それでもアレクサンドル・クリロフ氏はその手を休めることがない。彼の夢は、琥珀で聖障(イコノスタシス:聖画像の描いてある内陣と身廊との仕切り)全体を制作することだ。



琥珀の間の復元

 第二次世界大戦後、戦争中に破壊されたエカテリーナ宮殿は修復が進められていましたが、琥珀の間は琥珀そのものが失われていたため、その復元については手の施しようがありませんでした。

 以下は、琥珀の間の復元、修復のための特別作業室の写真です。


琥珀の間の復元作業のための作業場 
Source:Wikimedia Commons
Autor: Robert BreuerVlastní dílo, CC BY-SA 3.0, Odkaz


 その後、1979年から琥珀の間の修復が開始されることとなります。修復の際には、琥珀の間に関する視覚的資料がほとんど残されていなかったため、復元は困難を極めることとなりました。

 復元にあたった人々の地道な作業が実り、2003年に24年の歳月をかけた修復が完了し、フランスのエヴィアンサミットに先立って世界の首脳に披露されました。復元には琥珀の原石が5トン使われたと学芸員が述べていました。


つづく (大黒屋 光太夫-1へ)    総目次に戻る