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厳寒のロシア2大都市短訪
 

ロシアの作曲家

ボロディン1

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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ロシアの音楽家

◆ボロディン

◆ロシア5人組

 ロシア5人組は、ミリイ・バラキレフを中心として19世紀後半のロシアで民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団のこと。次の5人からなります。

 ミリイ・バラキレフ(1837年 - 1910年)
 ツェーザリ・キュイ(1835年 - 1918年)
 モデスト・ムソルグスキー(1839年 - 1881年)
 アレクサンドル・ボロディン(1833年 - 1887年)
 ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844年 - 1908年)

 アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin,, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人です。


ロシアの作曲家、ボロディンー1
Source:Wikimedia Commons
Autor blakedynasty.typepad.com, Javno vlasništvo, Poveznica


その生涯

 サンクトペテルブルクにて、グルジアのイメレティ州タヴァディのルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリ(ロシア名ゲディアノフ、62歳)と既婚のロシア女性エヴドキヤ・コンスタンティノヴナ・アントノヴァ(25歳)の非嫡出子として生まれます。

 グルジア王国が複数の王国と複数の公国に分裂した15世紀以降も各国の君主家は引き続きバクラチオニ家であり、19世紀初頭まで存在したイメレティ王国も同様です。また、イメレティ王国はグルジア王国から分裂直後から、長らくオスマン帝国の侵略をたびたび受け、ロシア帝国に1810年に占領・併合された頃は実質的にオスマン帝国の支配下にありました。

 ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人ポルフィリ・ボロディンの息子として登録しました。しかしボロディンは、ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻しました。

 転じて、サンクトペテルブルク大学の医学部に入ります。最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張しました。この頃、ムソルグスキーと知り合い]、シューマンの曲を紹介され、興味を持ちます。

 ピサ大学では臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見しました。26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)に入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合います。卒業後はサンクトペテルブルク大学医学部生化学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残しました。

 作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがありませんでした。1869年にバラキレフの指揮によって交響曲第1番が公開初演され、同年ボロディンは交響曲第2番に着手します。この新作交響曲は、初演時には失敗しましたが、1880年にフランツ・リストがヴァイマルでドイツ初演の手筈を整え、ボロディンの名をロシアの外に広めました。

 やはり1869年には、オペラ『イーゴリ公』に着手、これはボロディンの最も重要な作品とみなされています。しばしば単独で演奏され、おそらく最も有名なボロディン作品となっている「ポロヴェツ人の踊り(だったん人の踊り)」と「ポロヴェツ人の行進(だったん人の行進)」は、『イーゴリ公』からの曲です。

 ボロディンは本職や公務に忙殺されて、生前この作品を完成できなかったため、没後にニコライ・リムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフにより補筆と改訂が進められました。

 1887年に急死した。謝肉祭の週間に、数人の友人を呼んで上機嫌に歌って踊って楽しんでいましたが、突然ひどく青ざめて卒倒したのです(動脈瘤の破裂だった)。サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に葬られています。

 化学者としては、ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)に名を残しています。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見したとされています。

作風と影響

 ボロディンは、作曲家としてその道に秀でていたにもかかわらず、いつも化学者として収入を得ており、化学の世界においては、とりわけアルデヒドに関する研究によって、非常に尊敬されていました。

 結果的に「日曜作曲家」を自称することになり、同時代人ほど多作家ではなかったものの、2つの交響曲や音画『中央アジアにて』(通称;交響詩『中央アジアの草原にて』)、抒情美をたたえて人気の高い「夜想曲」で有名な弦楽四重奏曲第2番はますます盛んに演奏されています。

 一握りの歌曲とピアノ曲も残され、なかでもピアノ曲『スケルツォ 変イ長調』は、ラフマニノフが演奏を録音に残しています。ボロディンは交響曲第3番にも着手したが、完成できずに世を去り、後にグラズノフによって「完成」されました。ただし、どの部分がオリジナルでどの部分が補筆か不明確な部分が多いため、この作品はボロディンの真作として扱われない傾向にあります。近年では、未完成のチェロ・ソナタなど、初期の室内楽曲も見直されつつあります。

 ボロディンの作品は、力強い叙事詩的性格と豊かな和声が特色です。名高い「ロシア五人組」の同人として、ロシア的な要素は否定すべくもありません。情熱的な音楽表現や比類のない和声法は、ドビュッシーやラヴェルといったフランスの作曲家にも影響を与えました。

 また、同世代のロシア人作曲家の中では、自然にポリフォニーを扱う能力でも際立っています。交響曲や弦楽四重奏曲のスケルツォ楽章は、ボロディンがメンデルスゾーンの作風を熟知していたことをうかがわせます。また、第1主題と第2主題との間に明確な対照性を与えず、それらに関連した要素を配置していく手法は、後の時代のシベリウスを予感させ、西欧的な二元性とは異なった思想基盤が表れています。

 ボロディン弦楽四重奏団は、ボロディンの功労にちなんでいます。1954年にはトニー賞を授与されました。これは、ボロディンの数々の作品を改作して創られたミュージカル『キスメット』の成功を評しての受賞でした。

主要作品

オペラ
 勇者たち
 イーゴリ公(未完)

管弦楽曲
 交響曲第1番 変ホ長調
 交響曲第2番 ロ短調
 交響曲第3番 イ短調(未完)
 交響詩 中央アジアの草原にて

交響詩
 中央アジアの草原にて


室内楽曲
 スペイン風セレナード
 弦楽四重奏曲第1番 イ長調
 弦楽四重奏曲第2番 ニ長調

ピアノ曲
 小組曲(全7曲)
 変化のない主題によるパラフレーズ

合唱曲
 キリルに栄光あれ、メソディウスに栄あれ(未完)

歌曲
 慈悲深い神


ロシアの作曲家、ボロティン-2へつづく