エントランスへはここをクリック   インドネシア全体メニュー

 厳寒のロシア2大都市短訪

プーシキン像

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
ロシア短訪・総目次に戻る

 ・像
  青銅の騎士像   プーシキン像


サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)
  サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

  

◆プーシキン像


現在のサンクトペテルブルグ中心部
出典:ワールド航空サ^-ビス

 アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(1799年6月6日(旧暦5月26日) - 1837年2月10日(旧暦1月29日))は、ロシアの詩人・作家。ロシア近代文学の嚆矢とされれています。


プーシキン像 
Source:Wikimedlia Commons



プーシキン像 
Source:Wikimedlia Commons

生涯

 モスクワに出生。父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族。母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、ピョートル1世に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人でした。おじのワシーリイ・リヴォーヴィチは詩人であり、カラムジンやドミートリエフなどの当時の詩人らがプーシキン家に出入りしていました。

 プーシキンは早くから文学に親しみ、また乳母はロシアの民話や民謡に詳しく、彼に影響を与えました。ペテルブルク郊外のツァールスコエ・セロー(現在はプーシキンと呼ばれる)にあったリツェイ(学習院)での公開試験で朗読した自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、デルジャーヴィンに認められます。これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなりました。1820年、最初の長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表。


Russian poet Alexander Pushkin
Source:Wikimedia Creative Commons
オレスト・キプレンスキー - http://etextlib.ru/Book/Details/18469, パブリック・ドメイン, リンクによる


 次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となって行きました。それを疎んだ政府は、1820年に彼をキシニョフへ送ります。1823年までキシニョフに留まりました。その間、夏にカフカース(コーカサス)とクリミアに旅して長編詩『コーカサスの虜(ロシア語版)』や『バフチサライの泉』を書き、高い評価を得た。1823年にはオデッサに移り住むが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、プスコフ県ミハイロフスコエ村に送られます。

 この時期にシェークスピアを愛読し、『ボリス・ゴドゥノフ(英語版)』などの戯曲を書いています。1826年、皇帝ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻ります。しかし、1825年に起こったデカブリストの蜂起の後の締め付けのために、デカブリスト(十二月党員)に友人をもつプーシキンは、北ロシアにいた時期に書いた『ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされます。


Pushkin memorial board at Iordake Varfolomey's house
Source:Wikimedia Creative Commons
By Alexander Murvanidze, CC BY-SA 3.0, Link


 ニコライの創設した秘密警察である皇帝官房第三課は、長官アレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵のもとでプーシキンへの監視を行いました。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説集『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成します。

 1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『アンナ・カレーニナ』のモデルとして知られる長女マリア、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫はゾフィー・フォン・メーレンベルク)の、計2男2女が生まれました。

 1833年、オラルとオレンブルクを訪問。

 1836年、雑誌『同時代人』を創刊。ニコライ1世の強権的な専制政治の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発しました。同年11月、『大尉の娘』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取りました。

 プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせます。やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、1837年1月27日、ペテルブルグ北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行いまし。この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取りました。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行いました。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬されました。


つづく (エカテリーナ宮殿へ)     総目次に戻る