エントランスへはここをクリック   
スコットランド現地調査報告
 
〜悲劇の女王、メアリースチュアートの
足跡をたどる旅〜
B幼少でフランスに嫁いだメアリー
Trip of Qeen Mary Stuart's Footprint

青山貞一 池田こみち

掲載月日:2012年7月29日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


上の地図は2200kmに及ぶ走行ルートと主な調査、視察点である

 こうして、メアリー・スチュアート女王はスターリング城の要塞と大砲と気丈な母親マリ・ド・ギーズに護られ、ひとまずイングランドからの攻撃と陰謀から逃れた。

 しかし、イングランド国王の幼少なメアリー女王をイングランドに奪取するもくろみは執拗なものだった。

 そこでメアリー女王の母、マリ・ド・ギーズは、母国フランスに対しスコットランドをイングランドから守ってくれるよう強く要請した。

 スコットランドは宗教もカソリックが中心、それに対し、イングランドはその後本格化する宗教革命のひとつの拠点、すなわちプロテスタントである英国教会の中心にあった。

 マリ・ド・ギーズからの申し出に対し、フランスは、次のような見返りを要求した。

 それはメアリー・スチュアートをフランス国王アンリ二世の王子、フランソアの妃にさせることであった。

 メアリーの母は、背に腹はかえられず、フランス国王の条件をのみ、メアリーをフランス王子に嫁がせることを決める。メアリーがまだわずか5歳のときのことである。


メアリーがフランスに嫁いだときに滞在したシュノンソー城

シュノンソー城
シュノンソー城 (トリップアドバイザー提供)

シュノンソー城
シュノンソー城 (トリップアドバイザー提供)

シュノンソー城
シュノンソー城 (トリップアドバイザー提供)

シュノンソー城
シュノンソー城 (トリップアドバイザー提供)


左がフランス王子フランソア二世、右がスコットランド女王
メアリー・スチュアート

 メアリーはフランスに渡る。

 そして10年後、15歳で1歳年下のフランソア二世と結婚した。結婚式は有名なノートルダム寺院で挙行された。


メアリーとフランソアが挙式を上げたフランスのノートルダム寺院

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

ノートルダム大聖堂
ノートルダム大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

 メアリーはこの時点で、スコットランド、フランスそして王位継承権のあるイングランドと3国の国王になる権利をもつことになる。


フランスシャンボール城

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

Chateau de Chambordの口コミ
Chateau de Chambord (トリップアドバイザー提供)

 しかし、フランソア二世はフランス国王に即位してまもなく急逝した。メアリーはフランスで宮廷生活する道もあった。しかし、故国スコットランドに戻り、敢えてスコットランドを護り続ける道を選ぶ。

 イングランド女王となったエリザベスは、メアリーがフランスからのスコットランドへ帰国する際、メアリーが王位継承権を放棄しない限りイングランドの海を通過させないと通告してきた!


イングランドの女王、エリザベス(一世)

 エリザベスには本来、王位継承権が無かったが、継承した王が次々に亡くなったためイングランド女王となっていた。

 1561年8月19日、メアリーは、何とか無事にエジンバラの外港であるリース港に5日後に到着した。


フランスから無事にスコットランドに帰ったメアリー・スチュアート
エジンバラ城の北側にあるリース港に着いたメアリー

 アリー不在時、母親のマリー・ド・ギーズと義理の兄が内政を司っていたがスコットランドの諸地域は地方王族や貴族によって無政府そして既得権益争い状態になっていた。

 さらに、この時期スコットランドでも宗教改革が起きていた!
 

つづく