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栖雲寺・武田信満の墓 1
    

 
(山梨県甲州市)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
23 August, 2018  
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 景徳院・武田勝頼の墓1  景徳院・武田勝頼の墓2     
 
栖雲寺・武田信滿の墓1   栖雲寺・武田信滿の墓2

はじめに 景徳院から栖雲寺へ

 私たちは景徳院の庭で北軽井沢から持参したおにぎりと卵焼きのお弁当をいただいた後、天目山をさらに上ったところにある栖雲寺(せいうんじ 棲雲寺ともいう)を目指した。栖雲寺は景徳院から車で4.3km、約10分の道のりである。

 栖雲寺の住所 〒409-1201 山梨県甲州市大和町木賊122


出典:グーグルマップ

 下は栖雲寺(せいうんじ・棲雲寺)の本堂である。


栖雲寺の本堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


栖雲寺の本堂の前で
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


昭和初期の天目山棲雲寺全景
出典:Wikimedia Commons


栖雲寺の鐘楼

栖雲寺の縁起

 臨済宗建長寺派の寺院で山号を天目山といいます。南北朝時代の貞和4年(1348年)業海本浄を開山として創建されました。開基は甲斐国主の武田信満公で、往時は中部地方における幻住派の拠点として、また戦国の大雄武田家の菩提寺として大いに繁栄しました。

 勝頼公の敗北後は、織田家の兵火で殿堂を焼失しましたが、徳川家康が寺領を寄付した為に旧観を取り戻しました。武田家の滅亡によって外護者を失いはしましたが、鎌倉建長寺の「参暇日記」によると、江戸時代には建長寺末山の四大柱寺の一つとして特別の待遇を受けていたようで、衰えたりといえども巨刹の面目を存していた事がわかります。

 また国指定重要文化財の普応国師坐像をはじめ、多くの文化財を有する寺院でもあります。県指定史跡の石庭は当時多くの修行僧が坐禅を組んだ禅庭として伝わり、秋には見事な紅葉が見られます。

 出典:栖雲寺公式Web

栖雲寺の概要

 栖雲寺(せいうんじ・棲雲寺)は、天目山の中腹で山梨県甲州市大和町木賊にある寺院。臨済宗建長寺派寺院であり、山号は天目山、本尊は釈迦如来。創建時には護国禅寺と称している。まさに天目山にある釈迦如来である、

 栖雲寺は、天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある寺院で日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。

 南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、開基業海本浄(ごうかいほんじょう、通称ごっかい、1284-1352年)は、当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。業海は文保2年(1318年)に、仲間5人と元に渡り、天目山において普応国師中峰明本(ちゅうほうみんぱん、1263-1323年)から教えを受け、印可を授かって、嘉暦元年(1326年)に帰国した。

 その後、師の教えを実践させる、修業の場に相応しい地を求めて、20年以上にわたって諸国を旅して、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとして、この地に天目山護国禅寺を創建したという。

 業海は、当時一世を風靡した、夢窓疎石の一派を強く批判し、岩窟に普応国師像を安置し、樹下で座禅を組み、地元の住民とはほとんど交わらず、牛に使いをさせた(『本朝高僧伝』)という伝説を残している。

 さらに業海は4年後に没するが、その後は、
甲斐守護・武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになり、兵庫県丹波市にある瑞巌山高源寺(開基の遠谿祖雄(遠渓祖雄)は業海本浄とともに元に渡った1人)とともに、「東天目」「西天目」と併称された。

 応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱に加担したとして、室町幕府の討伐を受けた、甲斐守護
武田信満がこの山中で自害した。信満の遺骸はこの寺に運ばれて葬られたとされ、栖寺には信満の宝篋印塔や、ともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。武田信玄も軍旗・軍配・陣中鏡を同寺に奉納したと伝えられている。


武田信満の墓


武田信満の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


武田信満の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


武田信満の墓
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


武田信満の墓
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


武田信満の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 戦国時代末期に、武田氏を滅ぼした徳川家康も、天正11年4月30日(1583年6月20日)の日付で、この寺に約3貫文の寺領保障と、3ヶ条の禁制を発している。また、寛永20年(1643年)には、家康の孫で江戸幕府3代将軍徳川家光からの寺領安堵の朱印状が発給されている。正徳6年(1716年)の検地帳による朱印地は約20石であったとされている。

 以下は業海本浄禅師書 『甲斐国社記寺記』


 寺之貢乾維山間ニ湖水有り。三日河之濫觴ニシテ水氾レル所也。名ヅケテ三日河此処ニ権與ス。往古山崩レ堕チ止メテ此ノ湖水ヲ為ス。其ノ時流レザルコト三日故世人呼ビテ三日河ト日ウ此ノ西岸上ニ座禅岩有リ、開山所定ノ坐処也。文和元壬辰七月二十七日、師淹然トシテ示寂。門徒、寺ノ西北隅ニエイリス。塔ヲ伝燈トイウ。武田安芸守信満公、師之道風ヲ追慕シテ当寺ヲ恢興シ若干ノ殿堂ヲ造営シ過多恒産之地ヲ寄附シ、開基檀越ト為る。信満公不幸ニシテ久痾ニナ染ミ、良医其ノ妙術ヲ尽クスモ卒ニ治ス能ワズ。是二於テ公自ラ謂ウ。是レ必ズ夙業ノ為ス所、深ク天目山ニ入リ仏前ニ対シ辛勤刻励シテ仏之加護ヲ憑ミ力メテ祈求スレバ当二病即チ癒エ其ノ時ニ於テ若シ平復ヲ得ザレバ密ニ自殺セン。即チ国位ヲ令嗣刑部大輔信重公ニ譲禅リ、天目山ニ登リ新タニ薬師瑠璃堂ヲ経始シ、傍ニ交厦ヲ構エテ居ス。是ヲ武田木賊殿ト謂ウ。

出典:古明地義勇著『「武田信満と栖雲寺」2010年8月 続解の試み 抜粋

 業海本浄禅師書には、木賊山上部には湖水があり、降雨時は氾濫し斜面を流れたとのこと、現在の庭園(石庭)はその影響で出来上がったのでは。武田信満は、大病だったようで、上杉禅宗の乱に加担したために自害したといわれてる。

沿革
 貞和4年(1348年) - 業海本浄を開山として創建された。
 延文4年(1359年) - 沙弥道金により銅鐘が鋳造されたと伝えられている。
 応永24年(1417年) - 甲斐守護武田家13代当主武田信満が天目山で自害、後に当寺に葬られる。
 天正11年(1583年) - 徳川家康は3貫文の寺領保障と3ヶ条の禁制を発した。
 文禄元年(1592年) - 伽藍は織田家の兵火により焼失したが、この年、庫裡が再建された。
 平成22年(2010年) - 「虚空蔵菩薩」ニューヨーク・メトロポリタン美術館の企画展に出品。
 平成28年(2016年)10月2日 - 「天目山棲雲寺 武田信満公 六百年遠諱」法要が執り行われた。

栖雲寺寺開山宝篋印塔(建築物) - 昭和47年1月27日指定

 観応3年(1352年)7月の在銘のこの「開山塔」は、業海の法嗣同寺第2世住持無二之元によって造立されたものと推定される。石質は石英安山岩で、現高は1.45mである。この開山塔は、総じて関東様式宝篋印塔の一変形である。関西・関東と、様式を異にする県下最古といえる在銘遺構の2基並存は貴重である。


栖雲寺寺開山宝篋印塔
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



摩利支天
出典:Wikimedia Commons


栖雲寺の重要文化財(国指定)

木造普応国師坐像 - 昭和46年6月22日指定
 普応国師は、中国元の時代の高僧で、臨済宗幻住派の祖中峰明本である。孤高の隠遁者として知られ、日本からも多くの禅僧が彼の元に参じて教えを受けて帰朝しているが、天目山棲雲寺の開山業海本浄もその一人である。きわめてきびしい禅風で知られ、この期のわが国の禅林に影響を与えた。木造普応国師座像は、剃髪し、衣の上に袈裟をつけ、腹前で禅定印を結んで座した頂相彫刻である。座高82.5cm、檜材の寄木造り、玉眼を入れた彩色像であるが、現在はほとんど表面の彩色は剥落している。像内首?に朱書の銘があり、文和2年(1353年)に、仏師法眼院広と法橋院遵によって造像されたことが分かる。院広と院遵は、棲雲寺本尊の釈迦如来坐像の作者でもある。

出典:Wikipedia


重要文化財(国指定)の普応国師坐像
出典:Wikimedia Commons


重要文化財(国指定)の普応国師坐像
出典:Wikimedia Commons

県指定有形文化財

木造業海本浄和尚坐像(彫刻) - 昭和35年11月7日指定
業海は、文保2年(1318年)元に渡り、杭州天目山で普応国師に師事、帰国後天目山棲雲時を開いた。棲雲寺を「東天目」とも呼ぶが、これは、業海とともに帰朝した遠谿祖雄が開いた丹波佐治の瑞岩山高源寺を「西天目」というのに対する呼称である。業海は山中にこもり、師の隠遁的性格と禅浄一致の思想を受け、日夜きびしい座禅修業の生活を送っていたが、文和元年(1352年)7月27日に示寂する。業海本浄和尚座像は、普応国師座像と同じく寄木造りの彩色頂相彫刻である。座高は61.0cmで、その首?内面に「将軍家大仏師 伯老法眼慶」文和二年葵巳十一」との墨書が認められ、この座像が業海示寂直後の時期に造られたものであることが分かる。

木造釈迦如来坐像(彫刻 本尊) - 昭和46年4月8日指定
木造釈迦如来坐像は、宝冠釈迦(華厳釈迦)如来坐像である。一般の如来像は、宝冠など頭上にかぶらず、一切の装身具を付けず、納衣に身を包むのみの出家姿で表されるが、宝冠釈迦如来像は、宝冠や胸飾りを付けて一見菩薩像と見紛う姿である。宝冠の釈迦は、中世以来禅宗寺院に本尊として安置されていることが多い。檜材の寄木造り、玉眼入れた彩色像で、像高は62.0cm、宝冠をかぶり、納衣をまとい、腹前で禅定印を結んだ姿であるが、その体部の構造が特殊な技法によって造僧されており、院派仏師の作であることが知れる。
絹本著色十字架捧持マニ像(美術工芸品) - 平成25年7月11日指定
一幅。絹本着色。寸法は縦153.3cm、横58.7cm。中国・元代(13世紀・14世紀)の作。山梨県立博物館に寄託。
六角形の豪華な多重蓮華座に刺し、頭光・身光を具備した独尊像。図上には天蓋を頂く。左右の肩に髪を数条ずつ垂らし、薄紫色の内衣の上に金・赤で縁取りされた白色の外衣をまとう。外衣の両脇と両膝の四カ所には方形の書き判があり、方形の枠内には宝冠をかぶった人物の頭部が描かれている。両手は胸前に置かれ、右手を施無畏印状に構え、左手に十字架を捧げる。肉身部の丁寧な描写や、着衣の襞(ひだ)や起伏を表す暈取り(くまどり)、金泥を多用した華やかな表現、絵絹の組織など中国・元代仏画の特徴を備えている。


山梨県指定有形文化財の業海本浄和尚坐像[1]
出典:Wikimedia Commons


つづく