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初秋の

「信濃の鎌倉」を行く

(10)塩田城跡

青山貞一・池田こみち

掲載日:2014年9月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
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初秋の「信州の鎌倉」を行く
(1)はじめに (4)別所温泉 (7)中禅寺薬師堂 (10)塩田城跡
(2)信濃国分寺 (5)常楽寺 (8)龍光禅院
(3)北向観音 (6)安楽寺 (9)前山寺 日本史年表

 前山寺を後に私達は、すぐ隣にある塩田城跡に向かいました。午後6時を過ぎ、日はとっぷりと暮れています。


塩田平の「信州の鎌倉」史蹟案内図。塩田城跡は前山寺の右隣にあります

 塩田城(しおだじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市前山)にあった城です。現在は長野県指定史跡となっています。。

塩田城の歴史

 塩田城は建治三年(1277年)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まります。

 以後、北条国時、北条俊時と3代に渡って塩田城は塩田北条氏の居城となります。

 元弘三年(1333年)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うものの敗れ、一族とともに滅亡しました。

 以後、塩田城は南北朝、室町時代を通して村上氏の支配となります。

 戦国期になると武田信玄の侵攻により塩田城は武田氏の手に落ちますが、上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とすることになります。

 しかし、数ヵ月後には武田勢に包囲され落城し再び武田氏の勢力下となり飯富虎昌が城将となりました。

 天文22年(1553年)に行われた第一次川中島の戦いの際、塩田城は武田勢の本陣となりました。武田家滅亡後、この地域は真田氏の支配となりますが、上田城の完成により廃城となったと伝えられています。


塩田城跡の概要

 
以下の出典は、主に上田市文化財マップです。

 現在の塩田城跡は、塩田平の南方にそびえる独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にあり、塩田平を一望できる位置にあります。

 神戸〔ごうど〕川と御前沢〔ごぜんざわ〕にはさまれた南北約700m、東西の最大幅約180mにわたる山腹一帯には、二十数段に及ぶ階段状の帯郭〔おびくるわ〕がみられ、また、その北側前方部の空堀跡の向かい側には広い平坦面が続き、城跡の大きさが想像されます。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2014年9月16日

 さらに、その北方前面には、かつての侍〔さむらい〕屋敷町の面影をよく残した東前山の集落が、南北約700m、東西約200mにわたって展開しています。

 この城跡は、昭和42年(1967)から昭和52年(1977)にかけて、数回にわたる発掘調査が行われ、前半は「空堀〔からぼり〕跡」の底部や規模の確認と、山麓中腹の「虎〔とら〕の口」と呼ばれる部分の石積み遺構・井戸跡などの発見がありました。


塩田城跡建物跡全景  出典:上田市文化財マップ


塩田城跡 礎石を伴う建物遺構  出典:上田市文化財マップ


塩田城跡出土の将棋駒・人形    出典:上田市文化財マップ

 また、昭和50年から3ヶ年をかけて実施した、通称吉十平〔きちじゅうだいら〕と呼ばれる平坦面の本格的な発掘調査では、礎石を伴う五間×五間の建物跡・溝跡・敷石遺構・土坑〔どこう〕などの遺構や、それに伴う豊富な遺物を検出しました。

 確認された遺物は、皿・内耳鍋〔ないじなべ〕などの土師質〔はじしつ〕土器、珠洲〔すず〕系土器の甕〔かめ〕、常滑〔とこなめ〕系大甕・瀬戸系天目茶碗〔てんもくちゃわん〕などの陶器類、さらに青磁〔せいじ〕・白磁〔はくじ〕・青花〔せいか〕などの中国製磁器類、銅銭・こうがい・小柄〔こづか〕・刀子〔とうす〕・銅鏃〔どうぞく〕・鍔〔つば〕・鉄釘などの金属製品、硯〔すずり〕・砥石〔といし〕・石臼などの石製品、また塗物〔ぬりもの〕・曲物〔まげもの〕・将棋〔しょうぎ〕の駒・人形・箸〔はし〕状木製品・建築部材などの木製品などがあります。

 このうち、大陸から渡来した磁器類や常滑系・瀬戸系陶器類は、室町時代後期のものと推定され、検出された遺構もこの時期であろうとの想定がなされました。したがって、かつて鎌倉時代の信濃守護所跡であろうという説は、間違いということになりました。ただし鎌倉時代塩田に入った、塩田北条氏の館跡は、この集落の北端に想定されています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2014年9月16日


 現在の塩田城跡への入り口です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2014年9月16日

 入り口には、下の写真にある塩田城跡という石碑が建っていました!


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2014年9月16日

 塩田城跡の視察を終えたとき、夕日は落ちかかっていました。塩田城跡は、まさに松尾芭蕉の「
夏草や兵どもが夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)を体感ずる場所でした(嗤)。

 青山は長野県には50回以上来ており、池田も20回はくだらないはずですが、恥ずかしながら過去、「
信州の鎌倉」に来ることはありませんでした。

 今回、たまたま別所温泉の北向観音を訪問したあと、ほんの数時間ですが、信州の鎌倉を駆け足で参拝、巡礼することができ、本当に良かったと思っています。

 ぜひ、次回は時間をとり、別所温泉にでも宿泊しながら再度信州の鎌倉をゆっくり見て回れたらと思います。

本稿はこれでおしまいです!