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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド2日目

ビビ・ハニム・モスク
Bibi-Xonum machiti Visit in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月10日
独立系メディア 
E-wave Tokyo
無断転載禁


 サマルカンド二日目です。

 今日は、サマルカンド市内のビビハニムモスク、考古学博物館、ウルグベグ天文台などを廻ります。

 朝、ホテルで朝食をいただきます。今日も、私達以外、客はいないようです。今日はまず、ホテルの窓から見えるビビ・ハニムモヅクに行きます。その後、アフラシャブの丘にあるシャーヒジンダ廟群《Shohizinda ansambli》、またかつてサマルカンドの町があったアフラシャブの丘にある考古学博物館と遺跡発掘現場、さらにはウズベキスタンでは知らない人がいないウルベルグ・ベク天文台跡に歩いてゆく予定です。

 このホテルの窓からすぐ近くに見えるティムールの妻、妃であるとビビ・ハニムのモスクに行きました。モスクのすぐ隣には、大きな市場があります。

 ものすごい人混み、雑踏で繁昌してます。この市場は、ショブ・バザールと言い、サマルカンド随一のマーケットです。ここで売られてないものはないと言われるほどです。特に有名なのは、主食のナンです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 ナンは分厚く、大きく、食感はパンとピザパイの間で一個20円ほどです。それだけで食べても美味しく、付け合わせがあればさらに美味しく食べられます。水を浸けて焼き直せば二年間は食べられると言う代物で主食であるとともに、保存食にもなります。

 恐らく、シルクロードを行く隊商の食べ物であったと思います。

 なお、このショービ市場については、サマルカンド二日目の最後で詳報します。


ビビ・ハニムモスク(Bibihonim masjid)

ビビ・ハニムモスク概要
《Bibihonim masjidi》ウズベキスタン南東部の古都サマルカンドにあるイスラム寺院。14世紀末から15世紀初頭にかけて、チムール帝国の創始者チムールにより建造。中央アジア最大の規模を誇り、1万人以上の礼拝者を収容できたとされる。度重なる地震によって崩壊し、旧ソ連崩壊後、ユネスコの支援を受けて修復が進められている。



 下のグーグルアースの衛星写真では、真ん中にショービ市場があり、真ん中下にビビ・ハイムモスクがあります。北側を通っている大きな道路は、ショービ・ズジンダ道路(一般道路)です。


出典:グーグルアース

 下は衛星写真で見たビビ・ハニムモスク(道路の左側)の全景です。青い3つのドームも見えます。右側にあるのは、ビビ・ハニムモスクとほぼ同時代につくられたビビハニ霊廟です。


出典:グーグルアース

 ところで、ビビ・ハニムモスクは、ティムールのインド遠征の凱旋に応えて妃ビビ・ハニムがティムールに贈ったものでもあります。

 実際は、凱旋前に完成できませんでした。このモスクは、ティムールの霊廟に負けず劣らずの壮大、華麗なモスクですが、完成後、妃は、ティムールに不貞を見破られ、ミナレットの上から投げられたという言い伝えがあります。

 下の写真は、大きな市場の裏側からビビ・ハニムモスクに近づいていった時に撮影したものです。非常に巨大なドームであることが分かります。この日、サマルカンドは快晴、すばらしい写真が撮影できます。


ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 下の写真は、ほぼビビ・ハニム・モスクのほぼ正面玄関から撮影したものです。上の写真は、下の写真の右下にある青色のドームです。 


ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


 下はビビハニムモスクのメイン・エントランスを見上げて撮影した写真です。


ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 このビビ・ハニム・モスクも、以下の記述にあるように、19世紀末に発見されたときには、かなり建築物、構造物が老朽化していました。その後、大地震が起き、大部分が破壊されました。

 現在、見れるビビ・ハニムモスクは、往事の物とはまったく別の1974年にウズベク・ソビエト社会主義共和国政府がモスクの再建築を始めました結果、出来たものです。下の写真を見るとそれがよく分かります。

 これはレギスタン広場にある多くのマドレセ、ミナレット、モスクについても妥当します。

◆ビビ・ハニム・モスク
(ラテン文字:Bibi-Khanum Mosque、ウズベク語: Bibi-Xonum machiti、ビビ・ハヌム・モスクとも表記)

 ビビ・ハニム・モスクは、ウズベキスタンのサマルカンドにあるモスクです。モスクの名前は14世紀にサマルカンドを支配したティムールの妻の名前よりとられています。

 下は、1905年から1915年までの間に、カラー写真の先駆者であったセルゲイ・プロクジン=ゴルスキーにより撮影された写真です。1897年の地震によるモスクの崩壊の跡が見られます。


ビビ・ハニム・モスクの外壁
セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーにより撮影された写真


修復前のビビ・ハニム・モスク


修復前のビビ・ハニム・モスク

 上の写真はゴルスキーにより撮影された当時のモスクの外壁です。このビビ・ハニム・モスクの外壁 (上の写真を参照) は高さ16.7m、幅10.9mもありました。 モスクのクーポラの高さは40mあり、入口部分の高さは35mもあります。中庭には大理石による大規模なクルアーンのスタンドがありました。
 
 ティムールによるインド遠征後の1399年、彼は新たに首都と定めたサマルカンドに大規模なモスクの造成を始めました。 国中から200人の職人や500人以上の労働者を集めて作業が進められ、重たい材料物を運ぶため、インドから95頭のゾウも連れて来られたそうです。そして完成したのは1404年という、猛超スピード建設でした。

  モスクはインド征服の際に持ち帰った貴石を使用して建設されています。ティムール朝時代にこの地を訪れ後に「中央アジア旅行記」を著したスペインの騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホによると、モスク建設に使用する貴石を運ぶために90頭の象を使用したとされます。

 1404年にモスクが完成したとされています。しかし、モスクは次第に使用されなくなり、何世紀もの後には砕けて廃墟と化していました。この原因としては、当時の技術からすると急速な造成を行ったためだとされています。

 1897年に起きた地震によりモスクは部分的にではあるが崩壊していました。しかし、1974年にウズベク・ソビエト社会主義共和国政府はモスクの再建築を始めました (上の写真を参照)。

 しかし現在のモスク (未完成) は事実上新しく造成されたモスクであり、以前のモスクの跡は残っていません。一方、ビビ・ハにム・モスクの付近で開催されているシヨブバザールは600年前に以前のモスクが建設された当時と全く変わらない賑わいを見せています。

出典:Wikipedia

 いずれにしても、このモスクも中央アジア有数のイスラム建築であることに間違いありません。

 この後、入り口で2人分の入場料と写真撮影料を支払いビビはニモスクの内部に入りました。


ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4



ビビ・ハニムモスク
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3



ビビ・ハニムモスク
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 下に写っているビビハニム・モスクの中庭の中央に説教台があります。そこには巨大な大理石のラウヒ(コーラン書見台)が置かれています。これはオスマン・クラーンという世界最古のコーランだそうです。ちなみに『この書見台の周囲を願い事をしながら三周回るとその願いがかなう』と言われています。オスマン・クラーンはタシケントの「ハシュト・イマーム・モスク」で見る事ができます。


巨大な大理石のラウヒ(コーラン書見台)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


巨大な大理石のラウヒ(コーラン書見台)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


巨大な大理石のラウヒ(コーラン書見台)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3


サマルカンド (トリップアドバイザー提供)

 なお、逆光で良く撮れていませんがビビ・ハニム・モスクと道路を挟んで反対側にビビ・ハニム廟があります。建設時期はビビハニム・モスクとほぼ同時期だそうです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


サマルカンド (トリップアドバイザー提供)

 下はこの日の夕方、再度ここを通ったときに撮影したビビ・ハニム廟の写真です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


つづく