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   ウズベキスタン現地予備調査

タシケント到着
ティムール広場
  Toshkent kelish, Timur Square

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月9日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

 池田は列車の車内で3週間の予定でウズベキスタンを旅している東京電機大学の学生がおり、話したところ、卒業記念に一人で旅しているとのこと、なかなか立派です。
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 実は私達が最初にウズベキスタンに飛行機で到着したとき、夜のタシケント空港で、これから1週間ウズベキスタンを一人で旅する若い女性に出会いました。

 彼女はバックパッカーの出で立ちで、タシケントからヒヴァの地方空港に行く途中でした。聞けば、毎年この時期、1週間から10日程度有給休暇を使い世界中を一人で歩いているとのこと、すでに一通り日本人の観光客が行くアメリカ、ヨーロッパなどへの海外旅行は終了し、モロッコ、モスクワ、サンクトペテルブルグ、ネパール、ブータンなどを旅しているとのことです。

 下の写真の左側がその彼女です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4

 今回のウズベキスタンは、何とヒヴァからブハラまで約500km以上を車をチャーターし、運転手と二人で7時間飛ばしてきたとのこと、これにはビックリしました。家族は心配しないのですかと聞くと、彼は何を言っても実行するので,あきらめている(笑い)とくったくなく笑っていました。

, 私達の過去の経験からいくつかの国や地域を詳しく紹介してあげると喜んでいました。あくまで一人で海外、それも結構、容易でない場所に行くのが好きなようで、日本にもこのような若い女性がいるものだと、感心させられました。
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 そうこうしているうちにタシケント駅に到着しました。

 首都らしくタシケント駅もすごく立派かつ綺麗です。タシュケント駅はウズベキスタンの首都タシュケントにある鉄道駅ですが、タシュケント駅にはカスピ海横断鉄道やウズベキスタン鉄道の他、1984年12月8日に開通したタシュケント地下鉄のウズベキスタン線も通っています。


タシケント駅
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 重い荷物を持ってやっとのことで外に出ると、迎えに来ているはずの送迎のドライバーがいません。あちこち探していると、もう一つある出口で待っていてくれたようです。

 下はいわゆる路面電車です。タシケント市内には鉄道以外に、めずらしく路面電車、地下鉄が整備されています。


タシケント市内には鉄道以外に、めずらしく路面電車、地下鉄が整備されています。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 合流しタシケントのホテルに向かいました。この運転手は英語が堪能なので、政治、経済、社会に至るまで議論できました。
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 ホテルはインド系資本の大ホテルですが、WiFiが上手くつながらない、ACコンセントがひとつしかないなど問題がありました。ただ最後の日なので、贅沢は言っていられません。そうそうにタシケントの町を視察しに出ました。


ホテルはインド系資本の大ホテル
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 ホテルはタシケントダウンタウン、とりわけ近くに超豪華な国会議事堂がある官庁街です。


超豪華なウズベキスタンの国会議事堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


超豪華なウズベキスタンの国会議事堂を背景に
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


超豪華なウズベキスタンの国会議事堂を背景に
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4

ウズベキスタンの政治と制度

 国家元首である大統領は、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領であったイスラム・カリモフが独立以来その職にあります。首相と副首相は大統領が任命します。大統領官邸は、オクサロイ宮殿(白い館)。

 議会はアリー・マジュリス(Oliy Majlis)と呼ばれ、一院制で任期5年、250議席。アリー・マジュリスの初の選挙は1994年の第16回最高会議にて承認された決議の元開催されました。同年、最高会議はアリー・マジュリスとその名称を変更しました。ウズベキスタンはこれまで3回の大統領選挙を行なっているものの、すべてイスラム・カリモフが選出されています。

 議会は定員150名の下院(日本の衆議院に相当)と定員100名の上院(日本の参議院に相当)に分かれており、それぞれ任期は5年です。第3回の選挙は2009年12月27日に、第2回選挙は2004年12月から2005年にかけて行われたアリー・マジュリスは2004年まで1院制でしたが、2002年の国民投票の結果、次期選挙から二院制に移行することとなりました。議会に参加する議員数は1994年は69名であったが、2004〜05年に120名へと増加、現在は下院の議員数は150名にまで増加しています。

 現在、旧ウズベキスタン共産党から改組されたウズベキスタン人民民主党を中心とする諸政党がイスラム・カリモフ大統領の支持勢力として議会を支配しています。カリモフ大統領はウズベキスタンの独立後、自己献身・国民民主党に所属していましたが、2007年にウズベキスタン自由民主党に党籍を移しました。いずれの政党も、カリモフ政権の支持政党である。

出典:Wikipedia

 大きな通りを挟んで、そのすぐ隣にはホテル・ウズベキスタンがありました。やはりいかにもイスラム様式の立派な建築物です。


大きな通りを挟んで、そのすぐ隣にはホテル・ウズベキスタンがありました。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 この後、有名なアミール・ティムール広場を通ります。この広場はサマルカンド同様、ロータリー形式になっています。その真ん中にティムール像があります。またその右したにある白い建物が国会議事堂です。


地図の中央がティムール広場  出典:グーグルアース

 このアミール・ティムール広場 英語: Amir Temur Square, Amir Timur Square、ロシア語: Сквер Амира Темура) は、ウズベキスタンの首都タシュケントにある広場でり、広場の前身はトルキスタン総督府時代の総督府前に建設された公園です。

 この公園はミハイル・チェルニャエフ主導の下、ニコライ・ウルヤノフにより1882年にモスクワ通り (現アミール・ティムール通り) とカウフマン通り (現ミルザ・ウルグベク通り) という新都市の二つのメインストリートの交差点にコンスタンティノフ広場という名称で建設されています。

 ウズベキスタン独立後の1993年、ウズベキスタン、タシケントのランドマークとなっていたカール・マルクスの銅像は新国家のイデオロギーに合わないとして撤去されました。

 1994年8月31日、ウズベキスタン独立後3周年を終わって広場は「アミール・ティムール広場」と改名され、広場の中央にはイルハム・ジャッバロフ製作による馬に乗ったティムールの銅像が設置されました。

 開園式ではウズベキスタン大統領のイスラム・カリモフも出席し、「長きにわたって支配を受けてきた我々は偉大な同胞であるティムールを讃え、歴史的貢献に敬意を払う機会を失ってきた。」というスピーチを行っています。

 広場で売春を助長するような犯罪行為が行われることに対処するため、市当局は広場のすべての飲食店や娯楽施設に対して立ち退きを命じています。この中にはカフェ「ドルジュバ」や複数のアイスクリーム店、花を販売していたムーア・パビリオンのようなパビリオンも含まれています。

 下は馬に乗っているティムールの銅像です。夕暮れが近く、銅像が引き立っています。


馬に乗っているティムールの銅像です。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4


馬に乗っているティムールの銅像です。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 下は斜め前から見たティムール像です。背景にはホテル・ウズベキスタンがあります。


斜め前から見たティムール像です。背景にはホテル・ウズベキスタンがあります。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

アミール・ティムール(1336年4月8日 - 1405年2月18日)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-4

 中央アジアのモンゴル=テュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)です。

 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設しました。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていたといわれています。

 ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗っていました。

 ティムールが鋳造した貨幣にはチャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれ、モスクの金曜礼拝でもハンの名前とキュレゲンの称号がフトバに入れて唱えられています。

 彼が没してからおよそ20年後、ティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』で彼が生前名乗らなかった「ハーガーン(ハン)」「スルターン」の称号が追贈されました。

 史家が著した年代記では、ティムールは「サーヒブ・キラーン(サーヒブ・ギラーン、Sahib Qiran、「幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者」、「吉兆の合(吉兆の星である金星と木星が太陽と重なる天文現象)の支配者」、「星座の支配者」)」の雅号で呼ばれています。

 その歴史家のうち、ヤズディーはティムールとともにアレクサンドロス3世を、ニザーム・アッディーン・シャーミーはチンギス・ハーンとティムールの孫ウマルを「サーヒブ・キラーン」として称しています。

出典:Wikipedia

 なお、この後、ソ連の捕虜とされた日本兵らも建築に携わったとされるいわゆるナボイ劇場を視察にゆきますが、その帰りに再度、このティムール広場を通るとき、夕闇のティムール広場を写真撮影しました。

 お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。国会議事堂の上には鶴が舞い降りています!


お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4


お月様も参加し、大変幻想的な写真となりました。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-4


つづく