エントランスへはここをクリック
第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
<第二次世界大戦(WW2)> ホロコースト地図  年表・資料  ホロコースト概要  個別収容所詳細  ビデオライブラリー  戦犠牲者数
関連サイト> 日中戦争 太平洋戦争 731部隊
グール強制収容所 (Camp Gurs:フランス) 地図
<フランス> ナッツヴァイラー   グール   ル・ヴェルネ  ドランシー  個別収容所詳細ヘ
WWW 検索 eewave 検索

概要
 グール強制収容所 (Camp Gurs) はフランス南西部の街グール (Gurs、アキテーヌ地域圏のピレネー=アトランティック県にある) に1939年からフランス政府によって設置されていた強制収容所である。

※ 英  Gur Concentration Camp
   独  KZ Gur
   仏  Camp de concentration de Gur 
   日  グール強制収容所

 元々はスペイン内戦の終戦時にフランシスコ・フランコの立てた新しいスペイン政権を恐れてフランスに逃れてきた難民を収容するための施設 (難民キャンプ) であった。第二次世界大戦が勃発すると、フランス政府はドイツを始めとする枢軸国の国籍を持つ者、および当時のフランス政権にとって危険と見なされた自国民 (思想犯および政治犯) を、通常の犯罪者とともにグールに収監した。

 1940年にフランスのヴィシー政権がナチス・ドイツと休戦協定を結んでから、刑務所となっていたグールの収容所をユダヤ人の強制収容所とし、フランス国籍でないユダヤ人を収容した。

 またそれまでと同様に政治犯、思想犯もグールに収監した。ナチス・ドイツの撤退後はドイツ人の戦犯とフランス人のナチ協力者 (ヴィシー政権下のコラボラシオンら) を収監した。

 なお、ドイツ占領下のスペインでの抵抗勢力が連合国から見るとフランコ政権を脅かすとされたことから、1946年に閉鎖されるまで彼らの収監にも供された。

解説

 グール抑留収容所は抑留収容所であるとともに戦争犯罪者の収容施設でもあり、1939年にグールに建設された収容所で、南西フランスのポーから遠くない施設だった。この収容所はフランシスコ・フランコ政権の報復を恐れてスペインを逃れた人たちを管理するために、スペイン南北戦争の終わり、カタルーニャが崩壊した後、元々フランス政府によって設立された。 第二次世界大戦が始まったとき、フランス政府は4000人のドイツのユダヤ人を「敵国人」として拘束し、同時に、フランスの社会主義政治指導者やドイツとの戦争に反対した人たちも拘束していた。

 ヴィシー政権が1940年にナチスとの停戦協定を締結した後、この収容所には、ドイツのユダヤ人とともに、政府にとって危険と思われた人々を主に収容することとなった。フランスが解放された後には、ドイツ軍捕虜とフランス人の協力者が収容されていた。この収容所が1946年に最終的に閉鎖される前には、ドイツによる占領に抵抗したレジスタンスに参加した前スペイン共和党の戦士たちがこの収容所に収容されていた。それは、フランコによるファシズム独裁政権に反対する意思表明が、同盟国の目からみて脅威となったためだった。

背景
状況
 収容所の長さは縦約1,400メートル、横幅は200メートルで、面積は28ヘクタールだった。収容所の全長1400mにそって唯一道路があった。通りの両側は200メートル×100メートルの区画で区切られており、イロット(区画/街区、文字通り「島or小島」)と名づけられていた。

 一方の側に7つの区画(イロット)があり、他方には6つの区画が設置されていた。この区画は道路から離れて設置されており、針金の屏で互いに分離されていた。屏は、区画の後部では二重に設置されており、外回りの監視が循環する通路を形成していた。

 各区画には約30の小屋が立っていた。全体では382もの小屋があった。このタイプの小屋は、第一次世界大戦中にフランス軍のために発明されたものだった。これらの小屋は前戦に近いところに建てられていたが、敵の大砲の射程外だったため、兵士がバラックに到着して、次の塹壕での任務を待つ数日間は、兵士を(安全に)収容する上で役立っていた。

 こうした小屋は、木製の薄い板で組み立てられ、タールを塗った黒い布でで覆われていた。構造と大きさはすべて同じだった。ただし、窓やその他の断熱材を備えいなかったため、寒さからは逃れられず、タールを塗って黒くした布はすぐに劣化し始め、雨水が小屋に入ってきた。収納スペースなどはなく、兵士達は床に置かれたわらの袋で眠った。各小屋の面積は25平方メートルだったにもかかわらず、ピーク時には60人もの人が宿泊しなければならなかった。

 食べ物は乏しく質が悪かった。 衛生設備、水道、配管などもなかった。収容所の排水はお粗末なものだった。この地域は大西洋に接近しているため、雨が多く、粘土質の収容所内の地面は常に湿った泥に覆われていた。 囚人達は、僅かな小石で道を作っていたが、無駄な努力だった。囚人達は小屋とトイレの間に、鉄条網の刺を外して針金をかけ、階段の手摺りのようにして、不安定な地面のバランスを保っていた。

 各区画(ilot)には、粗末なトイレがあったが、動物を飼うために使われるかいばおけの類いとあまり変わらないものだった。また、約2メートルの高さの台があり、階段を使用して上り、もう一つのトイレを建てていた。この台の下には排泄物を集めた大きな桶があった。それが満杯になると、手押し車で収容所の外に運び出された。

 収容所の特徴の一つは、針金の屏がわずか2メートルの高さでだったことだ。その針金の屏は電気柵ではなく、また、収容されている囚人達に機関銃を向ける歩哨や監視が詰める監視塔もなかった。そのため、収容所の雰囲気は他の絶滅収容所とは根本的に異なっており、監視員の側にも処刑(殺人)や虐待を行う者は居なかった。

収容所の周りには、管理棟と警備隊を収容する小さな建物があった。収容所の管理と世話は、ヴィシー政権によって文治が導入される1940年の秋まで軍の援助のもとで行われた。

被収容者:スペイン出身者
 スペインから到着した人は、4つのグループに分類されていた。(ここでは英訳して示す)

◎ブリゲート(Brigadists)
 彼らは第二次スペイン共和国のために戦った国際旅団に所属していた。彼らは国籍(ドイツ、オーストリア、チェコ、ロシアなど)のために、自国に帰ることができなかった。ある者は逃げ出し、他の多くはフランス外人部隊に入隊した。

◎バスク(Basques)
 彼らは、サンタンデールの包囲から脱出し、海に経由して共和党側に移ったgudaris(バスク民族主義者やその他のバスク政府の大隊)であり、故郷の外で戦い続けていた。グール収容所が彼らの故郷に近かったため、彼らはみんな地元の支援を受け、収容所を放棄してフランスでの仕事と避難場所を見つけることができた。

◎エアメン(Airmen)
 彼らは共和党空軍の地上部隊だった。彼らには機械の取引する能力があり、仕事をくれるフランスのビジネスマンを楽に見つけることができたため、早く収容所を出ることができた。

◎スペイン人(Spaniards)
 彼らは農夫であり、需要の少ない商売をしていた。フランスに興味のある人は一人も居なかった。彼らはフランス政府の負担となっていたため、フランコ政権の政府と協定の下、スペインに戻ることが奨励された。大多数はそれに従い、イルーンのフランコ政権当局に引き渡された。そこから、彼らは「政治的責任法」に従って、浄化(純化)のためにミランダ・デ・エブロキャンプに移された。

 1939年~1940年の秋にかけて、収容所内では、スペイン語が主流となっていた。囚人達はオーケストラを結成し、運動場も創っていた。1939年7月14日のパリ祭の日(バスチーユ・デイ)に17000人のスペイン出身の収容者たちは自ら運動場で軍事の編成をつくり、フランス国家「ラ・マルセーエイズ」を歌い、引き続き、スポーツの発表と合唱や楽器によるコンサートを開催した。

 ドイツ国際旅団のメンバーはドイツ語の新聞「Lagerstimme K.Z. Gurs」を編集していた。その新聞には100以上の版があった。近隣住民は収容所に来て、囚人達に食糧を売ることができた。時には、収容所の所長が囚人の一部の女性たちに、馬と手押し車を借りて、より安く品物を購入するよう外に買い物に行くことを許可した。郵便サービスがあり、時には訪問も許可された。

”望ましくない人々"
 第二次世界大戦の初めに、フランス政府は一般の囚人と敵国の市民を収容するために収容所を使うことに決めた。ドイツ政府がオランダの侵攻によって西部戦線を開始してから11日後の1940年5月21日に最初のグループがグール収容所に到着した。まだ収容所に残っていたスペイン人と国際旅団のメンバーに彼らが加わったこととなる;

・民族性や政治的志向に関わらず、フランスで敵国外国人と認識されたドイツ人。 その中で、ナチス体制から逃れたドイツ・ユダヤ人の数が際立っていた。 また、オーストリア、チェコスロバキア、独裁国イタリア、あるいはポーランド といった、ナチス第三帝国の勢力下にあった国の人々がいた。

・独ソ不可侵条約(Molotov-Ribbentrop Pact)の下で危険とされた左派のフラン ス人活動家(労働組合、社会主義者、アナキスト、特に共産主義者)など。 これらの人々のうち最初に到着したのは1940年6月21日で、その大半は年末ま でに他のキャンプに移転された。

・戦争関連産業で働くことを拒否した平和主義者たち。
・ナチス政権に共感していたフランスの極右の代表者たち。
・ドイツの進軍に先立って、北の刑務所から避難した一般の囚人たち。
・一般犯罪で裁判を待っている囚人たち。

 総じて好感をもたれていたスペイン人とは対照的に、これらの第二波の囚人達は、フランス語で「望ましくない人々(Les Indesirables)」と呼ばれ、まさに、望まれない人々だった。

ヴィシー政権
 1940年6月、フランスとドイツの停戦によって、収容所があった地域はビシー政権の管轄地域の一部となり、文民政権に譲り渡された。軍の指揮官は、指揮権を受け渡す前に、新フランス政府が、指揮権の変更を知らされていた多くの受刑者を突き止めたり追求しないように逃亡させ、記録を焼きはらった。そして、彼らは避難所や隠れ家を提供したフランス国民のなかに紛れ込み逃げた。戦後、記録が破壊されたために、多くの元受刑者たちが幽閉されたことに対する補償を要求することが困難となった。

 ドイツ政府がグールに送った査察委員会が到着した8月21日から10月までの間に、ナチス政権に共感していた国々を国籍とする700人の囚人たちが解放された。 そしてヴィシー政権は、フランス国民ではないユダヤ人、1930年代にフランスに逃亡したドイツ人ユダヤ人、ドイツから親衛隊に追放されたドイツのユダヤ人、ドイツ人が占領していた地域の境界線を違法に横断した人物を投獄した。

バーデンから追放されたユダヤ人
 収容所の歴史の中で最も痛ましい時期は1940年10月に始まった。ドイツ・バーデン地方のナチスの大管区指導者(「知事に当たる」)は、アルザスの近隣のフランス領もガリアリター(ナチスの支配地)とした。 バーデンでは約7500人のユ
ダヤ人が暮らしていた。 彼らは、主として女性、子供そして高齢者で、若者や中年の男性は移住させられるか、ナチの強制収容所に連行された。(これはナチスの公的な政策であり、アドルフ・アイヒマンによってより効率的に実行されたものだった。)

 ナチス大管区指導者は、グール野収容所ががほとんど空であるという情報を受け、1940年10月25日、Wagner-Burckel作戦の一環として、バーデンから(6,500~7,500人の)ユダヤ人をグールに避難させることに決めた。 そこでは、彼らはフランスの管理下に置かれたままで、生活条件は難しく、病気、特に発疹チフスと赤痢が多かった。

 1940年10月にドイツのユダヤ人をグールに追放したことは、ホロコーストの歴史において独特の事例である。一方では、ナチス政権がドイツの西側で行ったユダヤ人の追放をだけを取り扱っているが、他方では、先に述べた絶滅計画が描かれたヴァンせー会議(Wannsee conference)は、1942年1月まで開かれなかった。

注)ヴァンせー会議;15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害についての分担と連携を討議した会議である。会議は1942年1月20日にベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催された。(Wikiより)

援助機関
 1940年12月20日から、さまざまな人道援助機関が介入しサービスを提供しようとしてやってきた。バスク政府の追放に加えて、グール収容所の中にスイスの人道援助団体に所属する職場・ポストが設置されたり、ヴィシー政権が容認しているユダヤ系フランス人組織、クェーカーズ、CIMADE、YMCAなどのプロテスタントの団体も参加した。収容所は人口の大多数がカトリック教徒であった地域に設置されていたにもかかわらず、カトリック教団からはひとつも囚人達を支援する組織の提供はなかった。1941年2月15日、Oeuvre de Secours aux Enfants(児童援助協会)は医療職を導入し、グール収容所から多くの子供達を引き出して、フランス全土の家庭で引き取とる許可を得た。

日常の状態
 収容所内の安全のための設備は、多くの東方の施設と同程度に開発されたものではなかった。 しかし、服装が粗末で、お金がなく、地方の方言が十分にわからない住民たちは、すぐにそこに落ち着いて、逃げてもすぐに収容所に戻った。その後、再逮捕された囚人は、裁判の刑((報復を受けた者の)de losrepresaliados)として一時的に区画(小島)と喚ばれるブロックに拘留された。再犯の場合、彼らは別の収容所に送られた。しかし、外の支援者に頼ることができる囚人達は、スペインに行っても、フランスのフラットに避難しても、うまく避難することができ、結果として755人が逃げることができた。

東への追放
 ヴィシー政権はドイツ占領下のポーランドの収容所でユダヤ人撲滅のためのプログラムが発動した後、グールにいる5,500人のユダヤ人をナチスに渡した。1942年7月18日、親衛隊の隊長であるテオドール・ダネカーカー(TheodorDannecker)が収容所を点検し、東ヨーロッパへの輸送の準備をするようによう命じた。 8月6日から、彼らはパリ郊外にあるドランシー追放収容所に輸送され、その後多くは絶滅収容所で殺害された。 彼らの大半はアウシュヴィッツに送られた。

解放されたフランス
 フランス連合軍の侵攻によってドイツがこの地域から撤収したため、グールを管理にしていたフランスは、占領していたドイツやスペイン人に協力したことを理由に地域住民を拘束し、また、フランスでレジスタンスとしてドイツの占領に反対し闘い、難民となっていた人々を見つけ出した。 これらの男性はフランスとスペインの国境で武力紛争に踏み込もうとしておらず、フランコ政権との対決には関心がなかったが、フランス人は恐らく彼らを恐れて、短期間こうしたスペイン人をグール収容所で収容していた。収容所では、また、ドイツ軍捕虜も短時間収容していた。

解体
 収容所は1946年に解体された。その後、丘は高密度の植生で覆われたが、それでもまだ粘土から流れ出る水をまだ吸収しきれていない。訪れた人は、通路であったいくつかの石と小屋の基礎を見ることができる。 ボランティアグループは、収容所のさまざまな事件の合間を切り抜け、約64,000人の収容者たちが強制的に生活されられてきた現地を展示しようと、雑草を取り除く作業を開始した。

今日のキャンプ・グース
グールの友情とグール宣言 (L'Amicale and L'Apell de Gurs)
 1979年、収容所の創設40周年を迎え、地域の若者たちは、囚人を会議や講演に招いて忘れ去られた収容所の歴史を語り始めまた。このイベントは、フランス、ドイツ、スペインの報道機関に多数取り上げられた。その結果、翌年には6月20日~21日に、グールで再会が行われた。 同窓会には、多くの異なる国から百人もの元拘留者が参加した。出席者には、フランスのレジスタンスとナチス死収容所の生存者もいた。彼らは一緒に、「グールの友情(友達)」L'Amicale de Gursという組織を作った。この組織は、「戦闘の象徴でありヨーロッパ諸国の苦しみの象徴」と「強制収容所のグールは、警告、統一、行動を求め、人間が自由かつ尊厳を持って暮らせるよう行動する。」という宣言を発表した。

この日以降、毎年記念式典が開催されている。 この儀式の主な参加者の中には、ユダヤ人の組織、バーデン市民の代表、元亡命者、その親族、様々な国籍の人々がいた。彼らの存在によって、20世紀にヨーロッパを襲った独裁政権の犯罪行為をすべての世代が記憶していくことの重要性を指摘し、またそれを願っている。

現在の状態
 今日、収容所では三角形の小屋の再建が行われており、受刑者が住んでいた何百もの同じような小屋の存在を証言することとなっている。 元の小屋と同様に、再建に際しては、タールを塗った厚紙で覆われた薄い木片のスラブが用いられた。いくつかの記念建造物は、グールジアン(Gursien)という名前を思い起こさせる。この名前は、収容所近くの町の住人たちが受刑者を呼ぶために最初に使った名前であり、最終的には受刑者自身が自分たちのことをそう呼んでいた名前でもあった。

墓地
 大勢のドイツ国内のユダヤ人をグールに追放したドイツの都市が費用を負担して素晴らしく維持されている大規模なユダヤ人の墓地とは対照的に、グールの小島はあつい緑に覆われている。1944年に解放された後、フランスのバスク・ピレネー・ユダヤ人地域社会協会がグールの保守管理を担当し、犠牲者のための記念碑を建てた。

 しかし、年が経つにつれて、墓地自体は荒廃してしまった。この荒廃した状態を聞いて、カールスルーエの市長は1957年、バーデンのユダヤ人協会の支持を得て、収容所の保全に町として責任を負うことを表明した。彼は彼らのユダヤ人市民をグールに追放したバーデンの一部の人たちと連絡を取り、彼らがこのプロジェクトに参加できるようにした。フランス国家は、バーデンのユダヤ人組織連盟に、今後99年間、墓地を管理する権利を与えた。カールスルーエ、フライブルク、マンハイム、ハイデルベルク、プフォルツハイム、コンスタンツ、ヴァインハイムといったドイツの各都市は、現在、墓地の維持費を負担するようになっている。

 1985年以来、この収容所に収容されていたスペイン南北戦争の戦闘員を記念する碑が創られた。収容所の墓地には、このグループのメンバーが死亡した徳のための区画が用意されている。 2000年、ドイツ戦争墓地委員会はこの墓地で大きな改修工事を行った。

Statistics on internees at Gurs
グールの被収容者に関する統計


参照
1."Gurs". www.ushmm.org. Retrieved 2017-04-27.

1. ORT, World. "Music and the Holocaust". holocaustmusic.ort.org. Retrieved 2017-04-27.

3. "The Gurs internment camp | Chemins de Memoire - Ministere de la Defense - Ministere de la Defense". www.cheminsdememoire.gouv.fr. Retrieved 2017-04-27.

4. "Guys National Memorial". Memorial Museums.
STEVE FULTON Of The,United Press. (1940, Dec 28). GURS CAMP SHOCKS RED CROSS OFFICER. New York Times (1923-Current File) Retrieved from ProQUEST

外部リンク
1.U.S. Holocaust Memorial Museum Encyclopedia
Camp de Gurs (in French)

2.Photos of the site today (in Spanish)

3. Berga, a US PBS documentary on the Nazi camp system mentions Gurs
list of prisoners sent from St Cyprien to Gurs

4.Library and archival resources on the Gurs concentration camp at the Center for Jewish History


出典:Wikipediaフランス語版→英語版→日本語版訳 

欧州におけるナチスドイツの強制収容所。フランスのグール強制収容所は地図の左下、スペインとの国境近くにある。
出典・Source:Wikimedia Commonss
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる
出典・Source:Wikimedia Commons The Camp Gurs memorial, opened in 2007 出典・Source:Wikimedia Commons
グール強制収容所の記念館、2007年に開設
By Jean Michel Etchecolonea - <span class="int-own-work" lang="en">
Own work</span>, CC BY-SA 3.0, Link

Gurs internment camp    
グール(Gurs)の収容キャンプ
出典・Source:Wikimedia Commons
By <span lang="en">Unknown author</span> - Naši Španci: zbornik fotografija i dokumenata o učešću jugoslovenskih dobrovoljaca u španskom ratu 1936-1939, Ljubljana, 1961. (Our Spaniards: A Collection of Photographs and Documents on the Participation of Yugoslav Volunteers in the Spanish War 1936-1939, Ljubljana, 1961.),
Public Domain, Link
Internees in Gurs internment camp, some of them Jews, January 1941
グール収容所に収容されていた人々。これらの数名はユダヤ人。1941年1月
出典・Source:Wikimedia Commons
By <span lang="en">Unknown author</span> - a family album, Public Domain, Link
The French departement where Le Vernet is located
出典・Source:Wikimedia Commons
ル・ヴェルネが位置するフランスの地域(県)

Camp Vernet (model)  
出典・Source:Wikimedia Commons
ヴェルネ収容所(模型)
By Yeza - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>,
CC BY-SA 3.0, Link
Pavillon d'entree vu depuis une des lunettes cote Chartreuse. Fort Barraux.
Barraux, Isere, AuRA, France.  
シャルトルーズの眼鏡の1つから見た建物の入口。
フォートBarraux。 Barraux、Isere、Aura、フランス
出典・Source:Wikimedia Commons
By <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Patafisik" title="User:Patafisik">Patafisik</a> - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>, CC BY-SA 4.0, Link
Visite guidee, de la salle Lesdiguieres vers la salle Vauban avec deux maquettes du fort. Partie de l'"Exposition 1598 : Lesdiguieres prend Fort Barraux" (qui comprend la salle Lesdiguieres, les salles des gouverneurs du fort, salle Vauban (histoire des fortifications bastionnees), salle des XIXe et XXe siecles (de Haxo aux deux guerres mondiales). Fort Barraux. Barraux, Isere, AuRA, France.
レディギエールの部屋からヴォーバンの部屋へのガイド付きツアー、2つ要塞の模型がある。 「展示室1598:レディギエールにはバロー要塞があります」(レディギエールの部屋、砦の総督室、ヴォーヴァン(要塞要塞の歴史)、19世紀と20世紀の部屋(アクソから2つの世界大戦まで) バロー要塞、バロー、Isere、Aura、フランス。
出典・Source:Wikimedia Commons
By <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Patafisik" title="User:Patafisik">
Patafisik</a> - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>, CC BY-SA 4.0, Link