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「テロ」という用語について  青山貞一

掲載日:2004.4.20

 4月15日、長野県表現センターにおいて田中康夫知事の定例会見がおこなわれた。
 
 ひと通り知事の話しが終わった後、中日新聞社の記者からイラクで3人が拘束された問題に関連し質問が出された。

音声@:田中知事と記者との質疑応答の全容
音声A:イラク情勢についての知事発言部分 

 田中康夫知事は、4月11日付の「今日のコラム」で私が書いたイクバール・アフマド(Eqbal Ahamad)の「テロリスト論」のなかから、以下のノーム・チョムスキー教授(マサチューセッツ工科大学)の言葉を引用し、公的権力の座にいる者が安易に「テロ」と言葉を使うことに真摯な警鐘をならした。おそらく自分も公的権力の座にいるもののひとりとして。

 チョムスキー曰く、

「テロとは他者が『われわれ(米国)』に対して行う行為であり、『われわれ(米国)』がどんなに残虐なことを他者に行っても『防衛』や『テロ防止』と呼ばれる」

と、まさにその通りである。




ボストン市街からチャールズ川越しにケンブジッジのマサチューセッツ工科大学を臨む 
203.8に青山撮影


 現下の欧米社会、なかんづく米英諸国では、権力の座にいる者、すなわち為政者が自分に反対意見を表明する者から暴力行為に及ぶ者までを、「テロリスト」呼ばわりしている。そうした現実と実態がある。まさにブッシュ大統領、ブレア首相が「テロ」という言葉を使う場面を想定してもらえば、十分であろう。

 ところで、現在日本で起こっている報道機関をとりまく深刻かつおぞましい状況は、ほかならぬ記者自身が何ら疑問を感ずることなく、記事のなかで安易に「テロ」「テロ」と、この用語を乱発していることだ。

 いうまでもないことだが、今のイラクでは米英から一方的に受けた侵略行為に対し、広義の意味でのイラクの国民がやむなく、またやむにやまれず反米的レジスタンス的な活動をしている、と考えるのがもっとも妥当であると思える。そこでは銃を使うとか、重火器を使うかどうかはあまり大きな意味をなさない。

 にもかからず、「テロ」と言う言葉の本質的な意味やその外延を理解することなく、公的権力側のプロパガンダ的な意図と情報操作にのせられ、マスコミが連日「テロ」「テロ」と騒わぎ記事をせっせと出稿している。これこそ、忍び寄る国家主義の最大の恐ろしさではないだろうか。

 閑話休題

 私は以前から、この「テロ」について、N.チョムスキー、E.サイード、イクバールAなどの主な著作を読みあさる中で、小泉氏などが「テロに屈せず」などと「テロ」いう言葉を使うこととは離れて、大マスコミが安直に「テロ」「テロ」と、何らその言葉の定義もまた言葉の内包と外延への理解もないままパレスチナ問題やイラク問題で書き立てることに大きな疑問といらだちを感じてきた。今も感じている。

 眼前にある例をとって見ても、大マスコミは国家が敵国の罪のないひとびとを大量に虐殺することは、けっしてテロと言わない。たとえばイラクのファルージャで数日のうちに600人とも900人とも言われるイラク人が虐殺されたことを日本の大マスコミが米国による「テロ行為」と一度でも書いたことがあるだろうか。

 ジェニン同様、今後、ファルージャの大虐殺の詳細が明らかになるかどうかは分からない。だが、ファルージャの大虐殺こそ、国家権力の名の下での歴史に残る「テロ行為」となる可能性も高いと思う。ここに大マスコミそのものが国家主義的症候群にすでに毒されている現実をしかとみてとることができる。

 エドワード・サイードやノーム・チョムスキーからも非常に評価の高かったインド出身でパキスタンで多くの時間を暮らした政治哲学者であり活動家、イクバール・アフメトは、「テロリズム、彼らの、そして、わたしたちの」と題する講演のなかで「テロ」について次のように述べている。
........

 代表例を紹介しましょう。一九八四年十月二十五日(米国の)国務長官のジヨージ・シュルツは・ニューヨーク市の〈パーク・アヴェニュー・シナゴーグ〉で、テロリズムに関する長い演説をしました。

 それは国務省官報に七ぺージにわたってびっしり印刷されているのですが、そこにテロリズムに関する明白な定義はひとつもありません。

 その代わりに見出せるのは、つぎのような声明です。

 その一、「テロリズムとは、わたしたちがテロリズムと呼んでいる現代の野蛮行為である」。

 その二はさらにもっとさえています「テロリズムとは、政治的暴力の一形態である」。

 その三、「テロリズムとは、西洋文明に対する脅威である」。

 その四、「テロリズムとは、西洋の道徳的諸価値に対する恫喝である」。

.......

 上記にあるように、テロという用語自体が、単なる野蛮行為から為政者に対する政治的暴力、さらに西欧文明に対する脅威、はては西洋の道徳的諸価値に対する恫喝、と欧米の為政者の恣意的な思惑で使われてきたことがよく分かる。

 現在のイラク状況をチョムスキー流に言えば、次の如くになるだろう。
 
「テロとはイラクの国民が米国に対して行う行為であり、米国がどんなに残虐なことを他者に行っても、それは『防衛』や『テロ防止』と呼ばれる」と。