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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

鎮目市左衛門の墓

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo  
無断転載禁
佐渡現地視察総合目次   

 鎮目市左衛門の墓   
 佐渡金山、旧中心地相川町   佐渡金山、旧相川町の町並


 佐渡奉行所と勝場の視察を終えた私たちは、西側にある下相川の海岸沿いを走り、吹上海岸で佐渡の名奉行、鎮目市左衛門の墓を見つけた。

 場所は以下のグーグルマップの位置で、県道45号線の海岸側である。


出典:グーグルマップ

 下は鎮目市左衛門の墓である。すぐ隣に吹上海岸の海が見える。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 鎮目市左衛門の墓に立つ青山貞一。この時も、雨が降っていた。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下はさど観光ナビによる鎮目市左衛門の墓の解説である。

■鎮目市左衛門の墓 

佐渡金山最盛期を招いた名奉行

 鎮目市左衛門は、桃山〜江戸時代初期の武将。関ケ原の戦いでは徳川家臣として活躍。1618年に佐渡奉行に着任後、さまざまな施策を実行し、金銀山の復興に尽力した名奉行として名を残しました。お墓はその業績をたたえ、1845年に建てられたものです。奇観「弁慶のはさみ岩」と佐渡金銀山関連資産の「吹上海岸石切場跡」が隣接しています。

〒952-1501 新潟県佐渡市下相川852

・9年間の在任中、数々の善政により金山復興に尽力しました。
・鎮目奉行がその風景を愛したという下相川の吹上海岸に建っています。
・歴代佐渡奉行の中でも名奉行として名を残しています。


 鎮目市左衛門は、江戸時代で金山が一番栄えていた元和期の佐渡奉行です。菩提寺は下山之神町の総源寺ですが、遺言によって、相川の街からはなれた海岸に墓を造らせたといわれています。

 吹上海岸に建つ墓は弘化年間に再建されたものです。町民に「二割安米の払下げ」など、相川の人々のためになる政治を多くおこなった人で、近年まで「鎮目祭」が開かれこの墓辺はにぎやかだったといいます。また、この辺りの吹上海岸は石臼に使う石を切り出したところで、岩場の間に切り出した跡が残っています。

出典:さど観光ナビより


 一方、以下はWikipedia による鎮目惟明の詳細である。

◆鎮目惟明とは



鎮目 惟明(しずめ これあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。上田七本槍の一人。佐渡奉行。幼名を半次郎、通称を市左衛門という。

出自
『寛政重修諸家譜』によれば鎮目氏は甲斐国山梨郡鎮目村の出自。鎮目氏は初代七郎右衛門以来、甲斐守護甲斐武田氏の家臣で、惟真は武田信玄・勝頼の二代に仕え、武田家滅亡と共に隠居し鎮目氏は浪人となり、惟明の代で徳川氏に仕える。

佐渡での活躍
 元和4年(1618年)、秀忠の刷新人事の一環として竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)と共に佐渡奉行となる。惟明は佐渡国へ渡り、惟明と同じ武田浪人であった大久保長安の改革による盛期を過ぎた佐渡金山の経営を復興させた。

 竹村は江戸在住期間が長く、惟明の手腕によるものと評価されている。竹村は主に港湾、船などの輸送、流通面を担当した。惟明は、諏訪間歩など33間歩に公費を投入し、「御直山」として取り立てたり、金山・銀山の山主の経営する「自分山」からの公納の定率化をはかり、山主の経営を安定させた。

 また、米を市価の二割安で全町民に安く提供したり、貨幣流通の円滑化及び銀の島外流出を防ぐため、佐渡でしか通用しない極印銀や小判を造るなどした。

 これにより経済の活性化と生産量の増加により島の経済は活況を呈した。また惟明は、筋金のままだと日本海の荒波の中の輸送が困難を極める為、輸送しやすい小判にて運ぶことを上書した。

 元和7年(1621年)7月20日、後藤庄三郎は、惟明に伺いをたて、配下の後藤庄兵衛、浅香三十郎が初めて小判の鋳造を始めた。また、金銀の増産をはかるためにピストン式排水ポンプなど新技術を導入し、年間50t以上の銀、400kg近い金を産出するに至る。

 この時期が佐渡金山の全盛期で、多くの善政を敷いた名奉行として近世までその功績を称える「鎮目祭」が行われていた。また金山に限らず、新田の開発もしたとする記録が残っている。

 佐渡戸地村の鉱山施設の巡視の途中に現在墓がある地点で急死した。享年64。川狩り(釣り)をしていたところ体調を崩したという(『佐渡国略記』)。

 死因については伝承があり、惟明が無類の釣好きで、相川・吹上ヶ浦で大蛸を釣り上げた時に海に引きずりこまれそうになり、刀を抜いて自らの手を切断した時の傷が元でなくなったとか、巡視中に戸地川のトノフチで事故死したなど諸説ある。

 墓は佐渡市下相川、位牌は佐渡市相川山之神総源寺にある。墓は惟明の死後、弘化2年(1845年)に長男・惟吉の8代後の鎮目惟成、次男・惟忠の8代後の鎮目喜一らにより現在の位置に建てられた。墓は昭和33年(1958年)3月5日に新潟県指定史跡になった。

出典:Wikipedia


つづく