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国際漫画賞とマンガの古典化

佐藤清文

Seibun Satow

2007年5月23日


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


古典を読むということは、すでにそのような外形を無視してその可能性の中心において読むほかないということである」。

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』

 2007522日の閣議後の記者会見において、麻生太郎外務大臣は、海外で活躍する外国人マンガ家を顕彰する「国際漫画賞」を創設すると発表している。「ポップ・カルチャーが持っている発信力を高め、漫画のノーベル賞みたいなものにしたい」と述べている。作品は公募と出版社などを通じた他薦で毎年募集し、里中満智子・やなせたかし・ちばてつやの三氏が選考する。今年は7月2日に都内で授賞式を開き、受賞者には10日間ほど来日してもらい、日本のマンガ家との対談などを予定している。ただし、賞金はない。

 しかし、海外のマンガを評価とするには、作品から異文化を読みとる識見が要求される。各地の大衆文化における表現の特徴を考慮しないままに、日本のマンガを読む感覚で、表現技法の出来不出来を審査しては、正当な評価をすることは難しい。マンガがわかるだけでは不十分であり、異文化に対する知識・理解力が不可欠である。特に、マンガは大衆文化であり、集団的無意識が表象されていることも少なくない。麻生外相は国際漫画賞を「ノーベル賞のみたいなものにしたい」と言っているが、ノーベル賞はポップ・カルチャーを必ずしも対象とはしていないのであって、この賞の創設がいかに文化理解をおろそかにしていないかは明らかであろう。

 選考委員に異文化理解の点で疑問があると言っているのではない。日本の戦後マンガは外国のマンガからの影響をほとんど受けずに発達してきている。閉鎖性の中で独自に成長してきたため、異文化のマンガへの眼差しを十分に持っているとは言い難い。自閉することで、限定された読者を相手に細部にこだわり、高度に発達してきた傾向が強い。日本のマンガは諸外国と比べて、全体的には、絵の技術は低いものの、ストーリーや表現技法のレベルは高い。最近では、海外のマンガ事情を紹介する著作も出版されているが、その中には日本をマンガ先進国とし、他を発展途上国と見くびっている意見も目につく。異文化のマンガから刺戟や影響を受ける新たな日本マンが出現するきっかけとなるのではなく、日本のマンガの先進性を強調する場で終わる危険性も否定できない。

 しかも、この賞に賞金がないというのはあまりにも鼻持ちならない。それはマンガ制作が厳しい肉体労働だからというだけではない。マンガ産業をめぐる状況・制度は大きく異なる。むしろ、日本のマンガ産業の様相は例外である。アメリカでは、コミック本のキャラクターの著作権を出版社が所有し、マンガ家は下働きとして見なされているケースもある。また、香港のマンガ産業はグローバリゼーションに対応し、大陸や台湾だけでなく、東南アジアにも販路を拡大している。経済的に恵まれていないマンガ家もいれば、ビジネスマン化しているマンガ家もいる。日本マンが世界標準であり、賞金はなくとも、そこで認められたことはステータスなどと外務省が考えているとしたら、思い上がりもはなはだしい。

 麻生大臣ならびに外務省は日本のソフト・パワーとしてマンガが注目しているが、現在、日本のマンガはよく言って安定、正直に言えば停滞している。マンガが最もホットだったのは一九八〇年代である。国際漫画賞の創設は日本マンガの低迷化を決定的に印象づける出来事だとも言える。

 確かに、日本のマンガは世界的に受容され、日本文化を最も代表しているものの一つである。一九八〇年代、留学生は経済成長の秘訣やレトロの味わいを求めて日本へやってきたが、九〇年代以降、今ではアニマンガに惹かれて訪れる。

 けれども、日本においてマンガは担ってきたものを失ったままである。マンガは、団塊の世代を中心的な読者としてその成長と共に、高度経済成長と東西冷戦構造によって形作られている社会の中で発達している。一九九〇年代になり、それが崩れると、マンガは盛りをすぎ、代わってマンガをめぐる言説、すなわちマンガ学が勃興する。マンガ研究はこれからより活況を呈し、意欲的な成果が提示されていくに違いない。ところが、かつての文芸批評と小説の関係と違い、マンガ学が実際のマンガ創作に決定的な影響を与えてはいない。今のクラッシク音楽界が一九世紀以前の作品をそうしているように、主に、一九九〇年以前のマンガを消費しているのが現状である。マンガの持っていた革命的な力はゲームやインターネットの方に見られる。マンガに日本の重要なソフト・パワーの役割を過剰に期待すべきではない。

 マンガはB級文化であり、大人たちから目の敵にされてきたが、今や。A級文化としてお上が育成を推奨するほどだ。けれども、それは古典化以外の何ものでもない。文化において古典化は避けられない事態である。それを可能にしてきた社会的・歴史的状況が後退するため、古典は普遍化しやすい。マンガはまさにそういう状況にある。

 しかし、文化とは雑草のように隙間から顔を覗かせ、はびこって生まれ、育っていくものだ。産業としては続いていくとしても、インドにおけるヨガがそうであるように、マンガは日本で忘れ去られ、再発見される時を待っている。

 「それに、文化というものの現代での繁栄のしかたは、ときには気味が悪くなる。文化の一つの形である、民族だの国家だのというのが、このごろは少し繁栄しすぎている。民族だって国家だって、もうちょっと簡単に滅びたほうがいい。その滅びの歌は、古典として死者のアルバムに飾っておけばよい。(略)でも、文化だの伝統だのといったものが、偶然のはかない糸でしかつながっていかぬことぐらいは覚悟しておこう。文化は連続しているかという問いは、生命は連続しているかという問いに似ている。そこで血縁幻想はうっとうしい.。それに、この地球の生命にとって、人間なんてほんの一部で、ましてその文化なんてどうということない。にもかかわらず、ぼくはこの時代の文化によりかかって生きている」(森毅『文化伝統になるプロセス』)。

〈了〉

参考文献

柄谷行人、『マルクスその可能性の中心』、講談社文庫、一九八五年

中野晴行、『マンガ産業論』、筑摩書房、二〇〇四年

夏目房之介、『マンガはなぜ面白いのか』、NHKライブラリー、一九九七年

森毅、『考えすぎないほうがうまくいく』、知的生きかた文庫、一九九八年

佐藤清文、『I LOVE YOU, MR. ROBOT─手塚治虫の「鉄腕アトム」』

http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/astroboy.pdf