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活性と抑制
─理想のリーダー


佐藤清文

Seibun Satow

2009年5月19日


無断転載禁
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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「頭たる者は橋になれ」。

トマス・フラー『英国名士伝』


 2009年9月までに必ず総選挙があることもあって、ここのところ、各種メディアが「次の総理には誰がふさわしいか」というアンケートを頻繁に実施している。その結果が発表される度に、永田町は一喜一憂し、政局の一因とさえなりかねない状況である。

 グーグルで「理想のリーダー」を検索すると、実際の政財界のトップが各種アンケートに回答した結果を掲載したページを閲覧できる。だいたい上位には、織田信長や徳川家康、坂本竜馬など戦国武将や維新の志士が含まれている。理由をあれこれ挙げているものの、これは、いわゆる歴史小説が好きだと言っているだけである。

 パックス・ロマーナにおいて「哲人皇帝」と称されたマルクス・アウレリウス・アントニヌスやニコロ・マキャベリが理想の君主と絶賛したオスマン・トルコのスレイマーン大帝、史上最大の帝国を統治した元のフビライ・ハン、中国史上最高の名君と讃えられる清の康熙帝の名はそのリストにはない。日本の政治的トップの読書傾向と学識のレベルがわかるというものだ。

 一方、歴代大統領に最も好む映画の登場人物を尋ねると、その回答の一位はゲイリー・クーパー演じる『真昼の決闘』のウィル・ケインである。2001年の日米首脳会談の昼食会で、ジョージ・W・ブッシュ大統領と小泉純一郎首相がこの話題で盛り上がったことはよく知られている。しかし、ケインはおよそ民主的ではなく、民主国家のリーダーが選ぶとしては、いささかふさわしくない。決断力と孤独感に共感しているのだろうが、それは独裁者でも同じことである。一般のアメリカ人のアンケート結果では、グレゴリー・ペック演じる『アラバマ物語』のアティカス・フィンチであり、むしろ、こちらの方が自由と民主主義のリーダーから聞きたい回答である。

 日米いずれにせよ、回答する際にトップたちが自分をカッコいい主役と見立てている点は共通している。けれども、リーダーが主役となるような組織は、必ずしもよくはない。現職・元職を含めて、ここ20年の間に登場した首相や首長の中には、自分はこれだけ仕事をやっているのに、評価されないどころか、非難ばかりされているとメディアに不平肥満をぶつけるものが少なくない。功名心にとらわれて甘い見通しで始めた政策でヘマをしでかすと、時代や担当者が悪いと言い訳をする。風通しの悪い権威主義的雰囲気が組織を支配し、ご機嫌取りが出世して、多くの部下はやる気をなくす。小中学生向けの道徳教育の番組では、リーダーはこういった独善的な態度をしてはいけないと扱われ、主役は自分が間違っていたと気づくものだが、彼らにはそうした気配はない。こういうリーダーの出現は組織体にとって不幸である。

 森毅京都大学名誉教授は、『集団なんて所詮勝手もんの集まりだ』において、『水滸伝』を例に次のようにリーダーについて述べている。

 晩年の湯川秀樹さんとお喋りしたときに、話がたまたま、『水滸伝』の梁山泊の指導者宋江の話になったことがある。湯川さんに言わせると、「宋江ちゅうのは、どこが偉いかわからんやっちゃ。どうも偉いところが三つあるらしい。第一に親孝行、捕まるとわかったところでも親孝行しよる。これは、日本人にはわからんけど、なにか一つ親孝行といった義を持っていて、それで打算を離れるのがええのかもしれん。第二にワイロの使い方がうまい。味方が牢に入れられても、うまいこと裏から手ェ廻して、出してしまいおる。第三に、なにやらボヤーンとしておって、個性的な豪傑どもの上をユラユラしとる。これは、なかなか出来んこっちゃ」。

 でも、ただボヤーンとしているだけではあるまい。八方に気を配っていて、その気を配っているところを見せないのだろう。

 そもそも、集団がうまく進むには、活性と抑制がバランスをとっていなければなるまい。活性だけでブレーキがなければ暴走する。集団は自動車でないので、アクセルとブレーキを、指導者がふめばよいものではない。それに、全部が指導者の制御にかかっていたりしては、集団内部に自己責任が希薄になる。責任というのは、部署を守ることではない。部署を守るというのは、「官僚的責任」というだけのことだ。

 だから、集団が一方向に整然と「機械のように」進んだりせずに、ズッコケやらシラケやらをうまく組みこんで、自然に動くのがいいと思う。指導者の思いどおりの「集団」なんてのは、少なくとも長期的には破綻する。だれの思いどおりにもいかないのが、集団というものだ。

 管理者だけに責任を押しつけたりしては、二重によくない。管理者が判断を誤るという可能性はいつでもあるし、管理者以外が判断しなくなる。

 だから、管理というのは、思いどおりにならないし、思いどおりにいっては危険なものだと思う。それだけに、すべての徴候に気をつけ、さまざまの人間の微妙なあり方、活性と抑制の双方のバランスを計量するのが、管理というものなのだろう。

 『水滸伝』にはさまざまな文献学的問題が含まれ、民衆文学の形成を考察する点でも、多くの示唆を与えてくれる。また、それぞれの短編が鎖の輪がつながるように展開されて全体を構成しているため、『水滸伝』のスタイルは連環体もしくは章回体と呼ばれている。幸田露伴が全訳するほど影響を受け、この連環体を使って作品を書いている。

 自己顕示欲旺盛で、足を平気で引っ張り、隙あらば寝首をかいてやろうと手薬煉引いて待っている豪傑たちと比べて、リーダーの宋江の影は薄い。しかし、そうでなければ、この集団はバラバラになってしまうだろう。主役はあくまでも梁山泊という組織体であって、個々のメンバーでもなく、ましてリーダーではない。宋江は「活性と抑制の双方のバランスを計量」し、組織体を効果的に機能させるために存在している。

 『水滸伝』に限らず、元朝の演義には、設定や舞台は多様であるが、強烈な個性を持った豪傑の中で、リーダーが最もはっきりしない人物だという点が共通している。『西遊記』
の三蔵法師や『三国志演義』の劉備は強力なリーダーシップを発揮して、集団を束ねているのではない。また、宋江を含め彼らは完璧な人徳者というわけでもない。実用主義的に、ユラユラしながら猛者たちの間のバランスをとっている。「八方に気を配っていて、その気を配っているところを見せない」。言ってみれば、隠匿に徹している。

 これは何も文学作品の中だけの話ではない。「ボヤーンとした」リーダーの組織体がうまく機能したケースは少なくない。マンハッタン計画がその好例であろう。参加者はジョン・フォン・ノイマンやレオ・シラード、エドワード・テラー、リチャード・ファインマンなど一癖も二癖もある猛者揃いである。しかし、そのリーダーは陰気でさえないJ・ロバート・オッペンハイマーである。彼は、プロジェクトにおいて、「すべての徴候に気をつけ、さまざまの人間の微妙なあり方、活性と抑制の双方のバランスを計量する」ことに専心している。1945年8月6日から3ヵ月後、そのオッペンハイマーはハリー・S・トルーマン大統領と会った際、握手しながら、こう告げている。「私の手は血塗られています」。

 組織体があってリーダーがいるのであって、その逆ではない。組織体をいかに主役にするかをリーダーは腐心すべきであり、その「活性と抑制の双方のバランスを計量する」のが役割であろう。そレは一方で、そうした「ボヤーンとした」人物をトップに受け入れるだけの精神の成熟が人々にも求められていることを意味する。「自分の迷いをきりすててくれ、行動を肩がわりしてくれる『指導者』を求めすぎるのは危険なことなのだ」(森毅『これぞ絶対に後悔しない生き方』)。

〈了〉


参考文献
塩谷賛、『幸田露伴』全4巻、中公文庫、1977年
高島俊男、『水滸伝の世界』、大修館書店、1987年
藤永茂、『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』、朝日選書、1996年
宮崎市定、『水滸伝─虚構のなかの史実』、中公新書、1979年
森毅、『生きていくのはアンタ自身よ』、PHP文庫、1992年