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日米関係と政党政治

佐藤清文

Seibun Satow

2010年3月3日


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すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「アメリカは西洋ではない。極西である」。

ジョルジュ・デュアメル『西洋の大国 新トルコ』


 今日、日米関係は外交上の最優先項目であるが、近代日本史を見ると、そうではない時期もある。対米協調は政党政治と密接な関係にある。

 明治政府は、アメリカ以上にヨーロッパとの関係を重視している。中でも、イギリスとの接近を外交方針としている。イギリスは、19世紀後半には工業生産力でドイツやアメリカに追い抜かれてしまったが、世界の海外投資の半分以上を行う覇権国である。第一次世界大戦勃発の際に、ドイツが恐れていたのは何よりもこのイギリスの経済力にほかならない。1902年に締結された日英同盟は明治政府による外交の成果である。

 京都出身の西園寺公望を除けば、明治時代の首相の出生地は山口と鹿児島、佐賀だけである。山県有朋を始めとして藩閥政治家の多くは、政党政治に消極的である。

 この外交方針を転換したのが1918年に発足した原敬内閣である。この岩手生まれの首相は近代日本の統治構造を一新する。原は衆議院で多数派を占める政友会総裁の代議士で、爵位を持たず、藩閥出身者でもない。日本で政党政治がこのときから始まったといってよい。彼は大戦後のヘゲモニーがイギリスからアメリカに移ったと判断しただけではなく、反藩閥閥政治の外交として対米協調を方針とする。とは言っても、原は対英関係を軽視したわけではなく、良好さを維持しながら、アメリカとの関係の重視を外交に付け加えている。政党政治は、これ以降、濃淡こそあれ、対米協調を外交方針として継続していく。

 一方、反政党政治を志向する政治家や軍人、官僚、右翼などの勢力は、それに反対して、反米を掲げる。軍国主義者たちが反米外交を主張するのは、ナショナリズムだけでなく、反政党政治の動機も認められる。

 政党政治への不信が募るほど、世論も対米協調に否定的になっている。対米協調への賛否は政党政治の是非の言い替えである。

 軍にも、海軍の条約派を始めとして対米協調をとる軍人もおり、彼らは政党政治にさほど敵対的ではない。シビリアン・コントロールを重視する元連合艦隊司令官米内光政はそうした一人である。対米協調・日独伊三国同盟反対で知られた彼は、1940年1月、日米開戦阻止を望む昭和天皇の意向もあり、内閣総理大臣に就任する。斉藤隆夫が反軍演説を行ったのは、この米内内閣の時期である。しかし、同年6月、フランスがドイツに降伏すると、7月、同盟強化を推進する陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させ、近衛文麿内閣の登場を期待し、米内内閣を総辞職に追いこむ。その期待に応えて発足した近衛内閣は仏領インドシナに軍を進め、アメリカとの関係を決定的に悪化させてしまう。

 犬養毅首相の暗殺によって1932年に政党政治が事実上終焉すると、内閣の命運が欧州情勢によって左右されるようになっている。これには、1933年に誕生するアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの動向が大きく影響している。陸軍や革新官僚は、対米関係で行き詰ると、その打開策としてドイツとの連携強化を模索する。政党政治が終わって以来、政治的判断は願望的思考=信念に依拠する短絡さに支配されたと言ってよい。

 戦後、政党政治が復活する。占領下の政権はもちろん、1954年まで延べ7年間政権を握った吉田茂は対米協調路線を堅持している。もはや軍人や華族の時代ではない。政党政治家の時代である。

 1955年、自由党と民主党が合同し、自由民主党が結成される。民主党は、元々、反吉田勢力であり、自由党との違いを鮮明にすらため、計画経済・自主外交を掲げている。しかし、この自民党は経済政策では民主党、外交政策では自由党の方針が党内ヘゲモニーを獲得する。実際、旧民主党系で元革新官僚の岸信介が日米安保改正で対米協調路線、旧自由党系の池田勇人が「所得倍増計画」という計画経済路線をとっている。自民党は、以後も、外交では対米協調路線を推し進める。

 その後、自民党政権は言うに及ばず、非自民連立内閣の細川護煕・羽田孜両政権、社会党委員長を首班とした自社さ連立の村山富市政権。言うまでもなく、現在の鳩山由起夫政権でもやはり対米協調路線であることに変わりはない。もっとも、小泉純一郎政権を筆頭にいくつかの政権の場合は、対米協調ではなく、対米追従と言っていい。

 以上のように、日本の外交方針は、政党政治志向であった時期、一貫して対米協調路線である。政党政治が定着した今、対米協調はほぼ自明となっている。むしろ、戦前に反米を唱えたようなグループから中国を敵視する傾向が見られる。日中の互恵関係の是非がかつての対米協調に取って代わっている。

 顧みれば、日米の外交関係は1853年の黒船来航に始まる。それ以来、日本の制度・構造などを脅かすアメリカ発のものに対して「黒船」と呼ぶことがある。しかし、この比喩は、当時の世界情勢から見れば、適切ではない。ミラード・フィルモア大統領がマシュー・ペリー提督率いる海軍艦隊を日本に派遣して、いわゆる開国を迫ったのは、中国との貿易をする際の必要性からである。巨大な中国市場の門戸をアメリカに開放させたいが、それには貿易船の物資補給の寄港地が不可欠である。日本の開国は米中関係の状況から生じたのであり、アメリカにとって、日本の開国は手段であって、目的ではない。真の意味で「黒船」を使うのであれば、アメリカが中国での利益を得るために日本を利用する場面で用いられなければならない。

 現在、フィルモア大統領の描いていた通りではないが、アメリカは中国との関係が緊密である。政党政治が定着し、それをさらに発展させていくのであれば、対米協調に加えて何が必要であるかはわかりそうなものだ。今、もし原敬が生きていて日本の政治を目にしたら、外交方針としてどのような判断をするかは興味深いところである。

〈了〉

参考文献
天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年